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 ソニーから一般市場に出されたロボット犬・アイボの開発責任者であった著者。哲学や心理学の学識経験者より融通無碍な立場から、霊界や超心理学の世界に通ずる著書を多く出版している。
 この書籍は、山折哲雄、佐治晴夫、湯浅泰雄、吉福伸逸、異なったジャンル4氏との対談形式で作成されている。

 

 

【政治と宗教のバランスでみる日本の特殊性】
天外:日本で宗教と政治のバランスをとることができた構造的要因は何だったのでしょうか。
山折:土着宗教の神道と外来宗教の仏教が、調和的な共存関係に入っていたという点を、指摘するべきだと思います。
 平安時代を例にとりますと、当時の仏教は、国家の安定を祈願する鎮護国家的な役割を果たしたといわれますね。いわゆる 「鎮護仏教」 であり、国家を守る道具として機能していたわけです。
 鎮護仏教は、一般的にはネガティブな意味にとられていますが、私はそのことに積極的な意味を見出してもいいと考えているんです。
 そもそも 「宗教は国から自立して、たえず国を批判し続けるべきだ」 というのは、ヨーロッパ近代が生み出した考え方にすぎません。けれど、果たして、そういった思想は結果的に人間を幸せにしてきたといえるでしょうか。どんな宗教的理想を掲げようと、抑圧や支配の体制がそのことによって生じた例が実に多い。 (p.66-67)

 そのような(親鸞、道元、日蓮のような)異議申し立ての宗教は、「国家と宗教の相性がいい」 日本では、しょせん長続きできないんですね。 (p.75)
 下記リンク著作に、「神道はもともと、天下泰平、五穀豊穣などを祈ってきました。これは政治の目指すところと、価値観は一緒なんですよ」 とあるように、「国家と宗教の相性がいい日本」 であったことが分かる。
            【神道はパブリックな性格をもっている】
 政治に対抗するためとはいえ宗教が前面に出て理想を語りすぎると、拡大報復を招く極端な破壊戦争を引き起こしてきたことは、ヨーロッパの中世から近代に至る歴史を眺めて観るだけで十分知ることができる。
   《参照》  『日本史の法則』 渡部昇一 (詳伝社)
 宗教が前面に出ることの危険は、日本でも起こっている。日本が第二次世界大戦へと引き込まれてゆく過程では、神道が換骨奪胎された国家神道として利用されていた事例である。今日であっても、宗教本来の祭祀を等閑に政治権力の首座を狙うような宗教団体が存在するのであるならば、それは日本の歴史には全く持って相応しくない存在である。

 

 

【理性の枠を外す「瞑想」、理性の枠組みで語る「心の教育」】
 人格を育てるための方法が語られている。
天外:瞑想は無意識と向き合い、理性の縛りを解くことによって、自分の中の 「真人」 を見出してゆくプロセスだ、と実感しています。・・・(中略)・・・。瞑想して 「心の平安が得られる」 と、他人の心を乱すようなふるまいとは自然に縁遠くなるし、もちろん殺人もしなくなると思うんですね。
 なお、若者の心の荒廃が問題になるにつれ、「心の教育が必要だ」 と声高に叫ばれますが、そういう意見は的外れだと思うんです。学校教育における知識としての修身や道徳は、理性で枠を作り、その中に個々の人間を押し込めて行くという発想です。だから人格を育てるという意味では、それはかえって逆効果だと思います。
湯浅:同感ですね。学校や文部科学省の手に負える問題ではありません。 (p.130-131)
 瞑想という手法を実践していない、大乗仏教(特に顕教系)の人々と、単なる大学教育修了者たちが、専ら理性の枠組みで 「心の教育」 の重要性を語るのである。
 上記に続いて、こう記述されている。
 ただ、一言コメントすると、「修身」 という言葉は誤解されています。これは 『大学』 に出てくる言葉で、元来は自分の人格を確立するという意味です。
 「修身」 は人格を作る8段階(大学8条目) の1つで、もとは、天や祖先の霊を祀り、その心を知り、それに誠の心をささげることによって人格を確立することができる、という意味なのです。 (p.131)
 古典典籍 『大学』 に記述されている 「修身」 が目指していた 「人格の確立」 は、「人格」 のルーツである 「魂」 にまで遡及する説明となっている。日本で戦前に用いられていた 「教育勅語」 も同様であったはずである。
  《参照》  『もういいよ』 神かつ子 地湧社
         【「判断」する “人格” と 「選択」する “魂” 】
 しかし、今日の若者は 「人格」 という言葉より先に、「アイデンティティー」 などうという外来の言葉で自分自身を理解しようとしてしまう傾向にあるのではないだろうか。日本文化に対する、巧妙なすり替えであり換骨奪胎である。 

 

さて、「心の教育」 より 「瞑想」 をと語る著者であるが、瞑想の実践者たちの危惧はこれである。

 

 

【瞑想体験は生きるのか?】天外:瞑想中に瞬間的に宇宙と自分は一体だという感覚を持った人はかなりの数になると思います。ただ瞑想から醒めるとまたすったもんだの世界に戻ってしまって、なんの変わりもない。
吉福:そうです。・・・(中略)・・・そういうことを体験して、「だからどうだ」 というと、なかなかそれがパーソナリティーに反映されてこない。 (p.224-226)
 吉福さんは、宗教的な枠を外して人間の意識的深化の世界を体系づけるトランスパーソナル心理学を日本に紹介した草分け的な方。
(余談ではあるけれど、トランスパーソナル心理学は、カウンターカルチャーが叫ばれた時期のアメリカで発達した心理学のジャンル。故に、どうしても欧米人主導で来たから、一般科学と同様に “西欧の知の枠組み” に入ってしまっていることに違和感を持ってしまう。だから日本人にはなかなか根付かないのではないだろうか。)
 この会話に続いて吉福さんは、「体験自体を、自分の体験、他人の体験という分別をせず、全く分裂のない状態を感じることができれば、自分のパーソナリティーに反映しやすくなってくる。要するに解釈の問題ですね」 と語っている。最後に言っている “解釈” とは、言うまでもなく意味上の解釈ではなく体験の解釈である。
 脳には実体験とイメージの区別ができないという特性があるから、瞑想中のイメージと実体験とはあくまでも等価のはずである。しかし、それがパーソナリティーに反映されないのは、すったもんだの世界での実体験量の方が、圧倒的に多いからなのだろう。

 理性の枠組みを外した 「瞑想」 の効果を否定はしないけれど、大衆に対して効果的か? という疑問が生ずる。
 「心の教育」 や 「瞑想」 より優れた方法はないのだろうか?

 

 

【「善」と「美」の欠如】
湯浅:現代の私たちに欠けているのは、「善」 と 「美」。すなわち倫理と芸術の問題であり、それはもともと科学では説明できない問題なんですね。ところが、私たちは倫理と芸術を置き去りにしたまま、科学技術だけで世界を説明し、動かしうると考えている。そういった精神的なひずみが、環境、医療、セクシュアリティの問題などを引き起こしていると思うんです。
天外:確かに、私たちは近代的な理性や合理性のみを絶対視し、「真」 のみをもって 「真実」 だと考えがちですね。混迷する時代において、湯浅さんのご指摘は、新しい社会のあり方を考える上で欠かせない視点だと思います。 (p.184)
 芸術は、人類史にどのように関わってきたのだろうか。少なくとも、日本の伝統芸能である 「能」 は、神事を大衆の中で行おうとした聖徳太子の意思によって大衆芸能となった経緯がある。
  《参照》  『隠れたる日本霊性史』 菅田正昭 たちばな出版
            【能の起源 と 猿楽の由来】
 神国日本に仏教を根付かせ、「宗教と国家の相性がいい日本」 を創りだしておいた聖徳太子が、現代に生きているならば、どのようにして倫理(宗教)と芸術を展開してゆくのだろうか?
 仏教の覆いを取り去って日本本来の神道を中心に据え、能を中心とした様々な芸術を演じつつ、神界ネットワークを繋げるために世界中を駆け回っているのではないだろうか。
 
<了>