①では以前書いた効率化における無駄の許容についての続編について述べてきた訳であるが、今回はその続きを書きたい。

スポーツの試合において効率重視よりも時として無駄なアクションもまた必要になってくることについて、①で述べた。

しかしその一方で、日本のスポーツの練習や実際の仕事の現場では、未だに無駄なマンパワーを浪費しているところが多いのも事実だ。それについて筆者は意見を修正したい。

以前プロボクシングで元東洋ミドル級王者の佐藤幸治という選手がいた。

佐藤はアマチュアボクシングで100勝以上していて(40勝していれば勝ち星が多い方)、大学アマの道場ではガチのスパーリングだと相手が全員壊されるからという理由で、マスボクシング(寸止め)の練習しか出来なかった。

そんな練習環境でも高校・大学と日本一になるのは造作もないくらい国内重量級では圧倒的な存在な佐藤。

しかし、そんな佐藤もアマ時代に五輪のアジア予選でカザフスタンのボクサーにパンチで自分のアゴを跳ね上げられるという初体験を喫した。

その時、佐藤は「これからの練習はただガムシャラにやっただけでも無駄だ。効率も大切だ」と悟ったという。

もちろん佐藤にしてもプロアマ問わず、試合前の非効率な追い込み練習の必要性も知ってはいたし、倒すパンチが必然的に少なくなる手数重視のボクシングを否定はしなかった。

しかし、何のスポーツでも(あるいは仕事でも)一回に出せるマンパワーの量というのは限られている。

そこで無駄なエネルギーを浪費して、結果的に成功(勝利)しても21世紀に入った現代では、その結果プラス費用対効果も問われている時代に移りつつある。

①のサッカーでの90分間のピッチやプロボクシングの3分間×12Rといった限定された時間内での無駄はむしろ許容されて然るべきだが、今の時代は仕事の成果というのは世界的なトレンドとして「生産性の向上」の方向にシフトしている。

こうした社会的な流れの中で、一体いつまで日本はスポーツでも仕事でも生産性の低い無駄な作業を改善しないのか?という話である。

一方で、先日読んだ経済誌で「鳥貴族」の社長がこんな話をしていた。

「外食チェーン全体が労働力不足で、調理法の合理化を徹底したい」

「一方で、(鳥貴族の看板メニューである)焼き鳥には肉を刺す『串打ち』という作業がある。しかしこれは焼く直前に刺さないと劣化の早い鶏肉の鮮度が維持できない」

「鳥貴族は効率(調理法の合理化)と手間(串打ち)の差を見極めつつ、生産性を向上させたい」とあった。

要は何が必要で何が無駄かを現場の人間が理解することが(スポーツでも仕事でも)大事だ、という話だ。

ラテン語には「メメントモリ(死の存在を忘れるな)」という言葉がある。人間は自分も含めて、時間という存在を何の努力もなく当たり前に無料で得られている。

しかし、人間の持つ時間というのは「死」という終着駅があり、ある日突然終わる有限なモノだ。

なのに日本の学校や企業の現場は若いマンパワーや時間というのは実質タダのようなモノで、作業時間や労力の効率を考えるのは根性なしでナンセンスという風潮すら以前はあった。

しかしそのやり方が通用したのは昭和までで、ネットが津々浦々まで浸透した現在の日本ではスポーツでも仕事でも効率無視な人海戦術のような仕事(や練習)には限界がある。

昭和の頃の成功パターンに固執して、生産性向上を無視すると痛い目に遭うだろう。

そうしたマンパワーの浪費こそ全てという幻想から脱却できない人間へ、最後にニーチェの言葉で締め括る。

「脱皮できない蛇は死ぬ」
以前、このブログでスポーツにおいて効率を優先するか、無駄なモノを許容するかについて、持論を述べたことがあったがそれから3年経って、今回このことについてもう一度考えてみたい。

もともと効率と無駄のどちらが重要なのかを考え始めたのは、2015年のJ2・ジェフ千葉vsFC岐阜戦で1点ビハインドのジェフが、前半終了間際にルーズボールを必死に追いかけた町田也真人。

そのボールをCKに変えて、そのプレースキックから同点弾を生み出した、というシーンが執筆のきっかけだった。

その時はルーズボールを追いかけるという一見すると無駄な動作に世の中の重要な部分が含まれている、ということを述べてきた訳である。

あれから3年。正直、その時の意見が間違っていたとは思わないが、無駄なモノvs効率重視という対立に関して、少し考えさせられる部分もあったので、今回のテーマになった。

そもそもサッカーに限らず、スポーツにおける無駄なモノを何をもって無駄と判断するか?という基準の線引きも肝になっていく部分もある。

以前、元・名古屋グランパスの平野孝が名古屋退団後に米国の独立リーグでプレーしていた時にこんなことを述べていた。

「Jリーグだと取れる確率のルーズボールや競り合いのシーンが50%未満だと、体力キープの為に敢えてボールを追わない選手もいる。しかし、こっち(米国)の選手は取れる確率が40%や30%でも取りに行って、実際取ってしまう」

実際にこの話を聞いて、この頃の筆者は効率至上主義に対してアンチテーゼを持っていた時期もあった。

しかし、サッカーに限らず何のスポーツでも試合の時には、そうした無駄なモノに対する許容は必要でもあるが、今の日本社会において、あまりにスポーツの練習でも仕事でも効率化や生産性を無視した現場が多過ぎるのを実感している。〈②に続く〉
①では様々なコンテンツの作り手は「良い作品=客を寄せ付ける効果がある」と思っているようだ。

しかし実際のところは良いコンテンツが溢れている世の中では品質を高めるだけでは集客には不十分という話をした。

ではそれを克服するにはどうするのか?という話である。

筆者のブログはスポーツだからスポーツ中心に考えるが、その競技にもよるが様々な取り組みが必要なのは確かだ。

今の時代、猫も杓子もSNSだSNSだというが、老人だけで収まっている世界だと、そもそもSNSが何だと言うことを理解していない業界もある(まんまボクシング界がそうだが)。

筆者が普段使ってるSNSはツイッターくらいだからこの手段に限定して話すが、このツイッターという発信手段は天賦の才が必要な気がする。

一言で言えば質より量、言い換えれば「量が質に転化する」SNSというのがツイッターの感覚である。

業界のトップが何となく中身を理解しないでSNSを取り入れてみようと思い、現場のスタッフに管理を丸投げして、とりあえずアカウントを作ってほったらかしというコンテンツは多数散見する。

しかし、このツイッターという発信手段を使ってもっとそのコンテンツの楽しさを逐一、発信することが求められる。

もっと言えばツイッターを発信することが、コンテンツと関係ないこと含めて「楽しい」とのめり込むことができる(スポーツ含めた)娯楽産業の現場スタッフというのが、そうした「才能」に恵まれたスタッフと呼べる。

その上で①「良い」試合を提供できる(これは大前提。凡戦があれば一見の客は二度とチケットを買って会場に来なくなる。そこで止まってはダメ)

②その試合の楽しさを色々な人とシェア(共感・共有・共鳴)してもらう

③そうした共感の中で自分のコンテンツに対する価値観をお互いに構築し合い、刺激して考えを高める。

この3つの手順を踏まえて、スポーツというコンテンツは「試合」から「文化」に昇華し、またスポーツの試合がチケット代という形での現金化も可能になっていく。

古くからあるスポーツ産業の関係者に限って「良い試合=集客→現金化」と考える向きもあるが。

しかし今の時代、スポーツのような娯楽の現金化に必要なのは(良い試合は当たり前で)、その上でSNSという発信手段に「入り込んで」ネットの世界をかき回し続けられる人が必要だ。

娯楽産業が多様化した現代では厳しく、良い試合で勝手に客が来ると思うのは昭和の老人の甘えだと自覚しないと淘汰されるであろう。