2024.2.10 ついにラストワン!初代AE形の残党・京成3400形3448F追跡録① | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

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※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

割と今回は、年末年始を跨いでJR鶴見線界隈を注力してきた自分。

日常の仕事範囲とかも鑑みて進んでそうしてきたわけだが、決してそれだけじゃない。

それは、これまで散発で差し込んできた遠征ネタでも既に承知だとは思うが。


さて、昨年初めまで折々に追跡を仕掛けてきていた中に、都営浅草線5300形があった。

その流れで、かねてから同じ線区を走るもう一つの形式に注目をしていた。

京成電鉄の3400形である。

2020年から廃車が始まったとはいうものの、一昨年秋に都営浅草線5300形5320Fとセットで

記録に動いた時にはまだ3編成が残っていたのだが、昨年6月に3418Fが、翌7月には3438Fが

相次いで落ちてしまい、3448Fが最後の1編成になってしまった。

しかもこの3448Fは、京成電鉄では3300形引退後【最後の鋼製車】ということにもなった。


自分が京成電鉄で一番最初に乗ったのが初代AE形だったこともあり、その走行機器を受け継いだ

3400形は、特に利用頻度が増えた1995年以降はその頃から何かと気にかかる車両であった。

AE形が種車ということもあり8両5編成しか製造(改造)されなかったが、製造を受託していた

大栄車輌がステンレス製車両を製造できなかったことが、却って希少性を増す結果になった。

全塗装車が多く居て忘れがちだったが、既に乗り入れ先各社も鋼製車両が消えていたのである。


こうして、残り1本になってから優に半年余が経過。

今後「桜に染まるまち、佐倉2024」キャンペーンの一環で約1ヶ月ヘッドマークを取付けたり

ツアーで使用される計画があるものの、先行きは極めて不透明だ。

それもあり、定期的に墨田区内へ足を運ぶタイミングで運用状況を確かめることにした。

果たして2月10日土曜日、イベント前に京成成田まで往復できることを掴み、行動に移した。

スタートは日暮里から。

京成上野行きに間に合う算段がつき、急遽迎撃ポイントを変更した。


登場から30年余り。

通勤形電車としても十分に働き、その使命は全うしていると言えるだろう。


まずは、昔からのトンネルを車体をくねらせて走り、京成上野まで乗り通した。


折々に改装されている京成上野駅であるが、初代AE形の頃は決して華やかではなかった。

開業までの紆余曲折な歴史や現・東成田駅の位置関係もあり、長い事辛酸を舐められてきた。

やっとJRと共にターミナルビル直下に乗り入れを果たした前後、早くも2代目となるAE100形が

新製されて瞬く間に置き換えられてしまった、悲運のエアポートアクセス特急だった。

それだけに、34年前、当時11歳の自分の第一印象は“暗い”ただ一点だったのである。


しかし時代を追うごとに改良は進み、現在の3代目となるAE形ではスカイアクセス線開業と併せ

大幅なスピードアップを成し遂げ、山本寛斎氏デザインにより垢抜けたデザインに進化した。

そんな中で、この3400形だけが初代の血脈を細々と今に伝えてきていたのだった。


側面のKeiseiの筆記体社名ロゴプレートも、すっかり年代モノに。

そして、車体に近づくとやはり疲弊感は隠し難いものになってきている。


形は変われど、同じエアポートアクセスを担ってきた名優。

2代目のAE100形は更新されることなく姿を消してしまったが…

その伝統は、時代に合わせてブラッシュアップしつつも脈々と受け継がれている。


そして3400形となって、もう一つの国際空港・羽田へのアクセスも担うようになった。


この日は京成線内運用がメインであったが、都営浅草線・京急線への直通も頻繁に行われており

時には北総線へも入線するなど、3000形や3700形と共に遜色なく使用されている。


ともかく、この日はまず京成本線で3400形に揺られる旅に出た。

まずまずの乗車率を持って、10:54に発車。


およそ4分弱で日暮里へ。

下り線が高架ホームに発着するさまも、すっかり定着した。


車内は結構な乗客になったが、どことなく下町ののんびりな空気も一緒に運んでいた。


もちろん成田空港に向かう人もそれなりに。

それがこの京成電鉄の日常。


次は青砥に停車。

まだまだ“快速特急”の本領を発揮するには至っていない。


京成高砂の手前でAE形とすれ違い。

間違いなく、系譜は受け継がれている。