【90's DOOR 022】嗚呼秋休みの旅!165系、フェアーウェイで走っていた頃の記録 | たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

たいちょ〜の心のつぶやき 第2章

『縁は、連結する』鉄道など交通を中心に興味の赴くままに、日々呟き語るブログ。
※最近すっかり鉄道ルポタージュ化してますが、言いたいことを素直に言うという意味でブログタイトルは変えてません。

久しぶりの【90's DOOR】シリーズ更新。

この一連の自粛の流れで、このシリーズの進展が一気にあるかなぁと思っていたのだが。

逆に全く進まないでやんの。www

うちはテレワークとはひたすら無縁な業態だし、家業のほうもそれなりに需要増。
毎日公共交通機関を利用しているのも変わらなかった。

付けているのはマスクぐらい。

そんなわけで、世間とはいささか隔絶した暮らしぶりをしていた自粛期間だったのでありました。

こんなわけでもちろん、鉄道趣味も実はそれなりに動いていました。
といっても仕事も特にGW明けからは忙しくなったし、情報不足もあって普段よりは少なめ。
ただ、この情勢であまり出してしまうと、例によって正義ぶった輩が多数湧き出そうでしたので。
そのため、この間の事は記事内にそれなりに散らしているか、ツイートで匂わせたかに過ぎません。

勘のいい人は分かってるだろう。でも、ね?

という暗示ですw
大丈夫です、予防もしっかりしてきたし、現にこれを書けるくらい今も普通に元気なんですから。

さて、久しぶりに書いてみようかなと思ったのは。
5月21日発売の、月刊鉄道ピクトリアル。
特集でこんなものが出まして、買って読んでいるわけですが。

あー、色々な思い出が詰まっている快速ムーンライトシリーズ。
でも「ながら」「えちご」「九州」しか乗ってないし、「信州」は新宿か立川で見たり撮っただけで
意外にも終わっているのだけど、折々の旅で強烈な印象を残しているのは疑いないわけで。
あのスローでリーズナブルな古き良き夜行列車の雰囲気を味わうことはもうできないのだろうか。
遠方に旅に出れない分、そんな郷愁に浸っている今日この頃。

…なんてことは置いといて。
そんな雰囲気の旅をちょっとは味わおうぜッて言ったかどうかはまるで記憶にないが、1995年の秋に
そんな旅の計画が高校のクラスの片隅でひっそりと立ち上がった。

当時、うちの高校は前期・後期の二期制。
10月を境に期が分かれていて、その分かれ目に数日間の休みが存在していた。
確か一週間強だったがそれを我々は「秋休み」と呼び、さまざまな部分で恩恵に預かっていた。

それを控えた9月のある日、クラスメイトから秋休みに一日使って旅に出ないかと誘い話が来た。
それは後刻西武鉄道初代レッドアローさよなら運転に乗ろうと誘ってくれた男で、確かその前振りに
旅に行こうと言ってくれたんじゃなかったかなと記憶している。

当時、親に鉄道に乗りに行くのは基本母方の祖父母の家に行く時以外はあまり許可が出なかった。
だから、これまでは学校の行き帰りを利用するなど日々の鉄道の記録には工夫が必要だった。
だがしかしこの時は割とすんなり許可が下りたので、以降はそのパターンを活用することになる。
そんなわけで、秋休みの最終日に男3人はひっそり旅に出た。

1995年10月1日、日曜日
私は中央線沿線在住で主催は新宿区内在住だったから、地元から途中合流する形を取ったようだ。
そして八王子から電化工事完成間近の八高線で、高崎まで乗り通した。
既にこの年の4月の時点で寄居までは乗車済みだったのだが、ついに全区間走破となったのだった。

先ず出す写真はその道中の東飯能にて。
レッドアローネタでも出したがまだ西武管理の旧駅舎の頃で、ホームはとりあえず嵩上げしただけ。
ホーム中央部との段差は、今となってはバリアありありだったのがよく分かるカットだ。

しかしまぁ、キハ30系列で何時間も乗っているのは正直苦痛でしかなかったねw
走りは遅いし揺れるし、なによりほぼロングシートだったのはかなりの苦行レベルの旅。
今ならニヤつく事案なんだろうが、やはり当時は若さゆえ現実的にしんどかったのだろう。

それもあってか、停車時間を利用してちょいちょい降りてみてはあれこれ撮っていた形跡がある。
群馬藤岡駅の駅舎なんて、今にして思えばよく撮っていたなぁ。
(駅舎自体は、駅名看板が移動した以外は健在らしい)

ちなみにこの時の反動なのだろうか、未だにキハ110系列がお気に入り車両のひとつだったりもする。
キハ35系列慣れしていた当時の自分には、加速力や居住性の違いのカルチャーショックがでかすぎたw

ようやく八高線を走り抜け、終点高崎駅の手前ではこんな列車ともすれ違った。
長駆金沢から走り抜け、碓氷峠を下ってきた特急「白山」。
「あさま」に混じって、こんな列車がやってきたのが当時の高崎線だった。
上野駅であまりに見慣れ過ぎていたのだろうか、思ったよりあまり撮り残していなかったのだけど。

そして、高崎駅に着く頃には実に個性的な上信電鉄の電車の面々。
これらは、今に至っても好きな被写体のひとつなのだけど。

西武鉄道から移籍した401系改め150形151Fの初期の姿もそれとなく。
譲渡先で見た401系の最初の姿でもあった。

そして、長い長い八高線の旅を終えたら上越線でさらに北上。
新前橋では、三鷹から来た「パノラマエクスプレスアルプス」に遭遇。
意外な場所で見る面白さが、1990年代のジョイフルトレインにはあった。

ここからは初の両毛線を一気に小山まで全線走破。
途中踏切障害で一時抑止のハプニングもあったが、大過なく乗り切りホッと一息。
小山からは一度宇都宮線で北上を図る。

宇都宮では貨物ターミナルの入換機だったのだろうか、朽ち具合が激しいDE10の回送に遭遇。
牽引機はなんとEF65の500番台。
当時でも国鉄特急色で残っていたあたりF型の一部か、P型の535号機以降だったのか。
乗り継いだ黒磯行きの停車位置の関係からか、後追いでしか撮れていないのは惜しいところ。

そして黒磯まで辿り着いて、いよいよムーンライト用165系に初遭遇。

嬉しかったのは、当時上沼垂電車区配置の165系は原型の大目玉ライトの編成が残されていたことだ。
関東に残存する165系列は踏切事故対策という名目で前面の強化が行われ、同時にシールドビームに
交換されていたから、原型を見るのは東海道線のJR東海車かこれだけになってしまっていた。

…だがそれにしても惜しむらくは、快速フェアーウェイのヘッドマークのボロボロさよ!w
この時点で既に、列車名が判別できないほどの恐ろしい朽ちっぷりになっていた。
そんな実態を目の当たりにしてか、記念に一緒に撮ったものの顔がまるで笑っていない16歳の俺w
その後165系時代を撮影していないが、案の定ヘッドマークの取り付けは取り止めになったらしい。

それでも、走りっぷりは往年(小学校移動教室の集約臨)を思い出すには十分満足出来るものだった。
165系で宇都宮線を移動するのは当時でおよそ4年ぶりにして最後になるが、MT54モーターの爆音と
それに似つかぬ車内のグリーン車下がりの座席の快適さを、16歳の俺はとことん堪能できたらしい。

ただ、車内で撮ったのはこれくらいか。
自分が座った写真は無かったw
あと、日没前後の走りだったからか、今のように停車駅ごとに撮影なんてこともしていなかった。

当時は山手貨物線だったルートを走り抜けて、新宿駅に無事に到着。
この旅が契機になったか、次第に夜行列車を組み込んだ鉄道旅への思いを強くし始めていく。
そんなお話は、またいずれ。


1995.10.1 旅のルート

国 立
 ↓中央線各停
八王子
 ↓八高線普通
高 崎
 ↓上越・両毛線普通
小 山
 ↓宇都宮線普通
宇都宮
 ↓宇都宮線普通
黒 磯
 ↓臨時快速フェアーウェイ
新 宿
 ↓中央線快速
国 立