工具マニアで困ってます -6ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

アジアなる概念は「茫漠としたもので、同質的な文化なり、何らかのアイデンティティをもつものではない。当然のことながら、われわれの『アジア像』はつねに分裂している」と中見立夫氏はいう。地域というものには、それが「世界の諸地域」であればなおさらのこと、「国内の諸地域」においてでさえ、生得的に定まった概念など存在しない。


ましてや東南アジアのごとき地域を想定すれば、ここはまずは地理的に錯綜をきわめており、のみならず古くからヒンズー教、仏教、イスラム教、キリスト教といった大宗教、大伝統が幾度となくこの地に支配と教化の口上フーをかけ、さらに近代にいたってはさまざまな帝国主義列強が押し寄せて、暴力的に人種の混淆をつくりだしてきた。


したがってアジアとは何かと問われてもなし得るのは、再び中見氏の表現をもってすれば、「アジアを構成する国家や地域そして民族をわれわれは、過去どのように認識し、接近しようとしたか」についての分析結果を示すことでしかあり得ない。しかし、この分析はすこぶる重要である。なぜならば、われわれのアジア地域認識のスタイルの中に、日本人の自己認識が鮮明に浮かび上がってくるからであり、そうすることによって鋭い自己省察をわれわれが迫られるからである。


その上うな視点から眺めれば、本書は実に興味深い作品である。浜下武志氏は、日本人は外に対しては「地域的自己認識よりも、よりいっそう『くに』としての自己主張にみずからを絶えず凝縮してきた」という。日本は、中国を中心とした東アジアの「華夷秩序」においても、ヨーロッパ近代の国際関係に対比してみても「国家」としての自立性を強調するという点で抜きんでており、自他を峻別するという態度を持続してきたと主張している。


ここで浜下氏が表明したいのは、われわれ日本人にはアジア認識に不可欠な「日本人の相対化」が欠如しているのではないかという危惧なのである。アジア論盛行の今日、アジアの多義性、歴史性をあえて強調し、新しいアジア像の創造を求める筆者たちの真摯に敬意を表したい。

次の面接は正月が明けてからでした。今度も患者は予約どおりに来院しました。年末年始の休みをはさんだので、僕は少し心配していましたが、病状に大した変化はありませんでした。患者に尋ねなくてはならないことは山ほどありましたが、何を聞いても、「僕、話したかない」と断られました。そこで、僕は患者が僕にもっと慣れてくれるまで待つことにしました。


面接を繰り返して半年ばかりたった頃のことです。患者が面接室に入ってくるなり、「先生。僕ね、名古屋に行くことになっちゃった。引っ越すんです」少しずつ薬を増してきたせいで、この時までに患者はずいぷんとなめらかに話をするようになっていました。よく聞いてみると、父親が名古屋の本社仁戻るのを機に、家族も転居することになったそうです。父は、機械メーカーの東京駐在の専務でした。


「先生。僕、名古屋から通いましょうか? それとも、先生、名古屋の医者に紹介状書いてくれる?」僕はちょっと迷った末に、紹介状を書くことにしました。やはり、病院は通いやすいのが一番です。「でも、先生、僕のこと、詳しく知らないよね。僕、あんまり自分のこと話さなかったから」そう前置きして、彼は話し始めました。


「僕がノイローゼになったのはね、ポポが死んじゃった時に、悲しみ過ぎちゃったからなんです」「ポポつて、あの縫いぐるみのリス?」「ちがうよ。ポポは犬。ポメラニアンだからポポ」彼は小学校四年の半ばで名古屋から転校してきました。新しい学校になじめず友だちのできないのを見てとった父親が「友だちがわり」に買ってきてくれたのが、仔犬の「ポポ」だったのです。


クラスには意地の悪い男の子がひとりいました。初めのうちは親切そうに近づいてきたのですが、少し気を許すと、「○○君の靴を隠せ」だとか「○○さんの筆箱を捨てろ」と嫌なことばかり命令するのです。彼が断わると、その子は皆の前で名古屋誂を真似て彼を笑いものにしました。


それでも彼が知らん顔をしていると、彼の靴がなくなり、筆箱が消えました。担任に訴えても、その若い教師は「人を疑っちや駄目よ」ととりあってくれません。彼はひとりで学校中を探すしかなかったのです。それ以来、彼は授業が終るとすぐに家に帰ってしまうようになりました。「ポポ」と道で駆けっこをし、家でボールの取りっこをする方が、ずっと安全で愉しかったのです。


五年生になるとクラス替えがありました。例の意地悪な子とまた一緒だと知った日、彼は母親に塾に行きたいと頼みました。地域の中学へ行くのは絶対にごめんだと思ったのです。彼は週四日、塾へ通い、残りの日は自宅で勉強しました。勉強に疲れると「ポポ」と遊びました。その頃になると「ポポ」は「たったひとりの友だち」になっていたのです。


二年間がんばったのに、受験は失敗しました。それまで知らなかったのですが、例の意地悪な子も受験をしていました。彼が受けたところより「ずっと偏差値が低いとこ」でしたが、合格したと教室ではしゃいでいたのです。その子は私立へ行き、彼は公立の中学へ進学しました。もう問題はないはずでしたが、彼は誰とも打ち解けようとはしませんでした。「友だちはポポだけでいい」そう思うようになっていたのです。

中学時代も彼は勉強に明け暮れました。三年後、今度は第一志望の高校に合格しました。国立の一流校です。制服もなく、万事が生徒の自主性にまかされています。入学後まもなく、友だちが何人かできました。その後平穏な日々が続きました。

半年に及ぶ厳しい国会審議にようやく目処がついた九五年六月、これを具体的に示すことを決断をした。国会論議や外国からの指摘をも受けて、不良債権の定義を広げ、その額を「約四〇兆円」と発表したこと、そして「金融システムの機能回復について」(一九九五年六月八日)によって金融機関の破綻処理の原則を示したことである。思いきって金融機関の破綻処理に取り組むことを示すと同時に、預金者に不安を与えないため、五年間はペイオフをしないとの方針をここで打ち出した。


かなりのリスクはあると思いながら踏み切らざるをえなかったのは、二信組に続いて、いくつかの中規模の金融機関(兵庫銀行、コスモ信用組合、木津信用組合)の破綻処理が避けられないと思ったからである。二信組の処理で一応東京共同銀行という新たな手法を打ち出したが、われわれの不手際もあって揉みくちゃになってしまい、次のケースにもこの仕組みをそのまま活用できるとは思えなかった。次の段階に進むためには、何とかして制度的な準備と国民的なコンセンサスづくりをしなければならなかった。


その後国会や新聞などでは、たびたび「政府には破綻処理の原則がない」との批判を受けたが、この文書を読んで頂ければかなりはっきりそれを示していることをお分かり頂けると思う。実際、その後起ったいろいろな破綻処理に関する議論は紆余曲折を経たように見えるが、大筋はこの時示された方針の範囲内のものである。その概要は、次の通りである。


①概ね五年の問に、不良債権問題に解決の目処をつける。この間できるだけ早期に、ディスクロージャーを実現する。


②預金保険の発動によって保護されるのは、預金者、信用秩序であって、破綻金融機関、経営者、株主・出資者、従業員ではない。


③預金保険の発動方式としては、ペイオフでなく、社会的コストの小さい資金援助方式をとる。五年以内に、ペイオフを実施しうる環境を整備する。


④預金保険の発動要件
・経営者の退陣を基本とし、破綻の原因を招いたものの経営責任が厳格に追及される。
・株主・出資者は保有している株式・出資について損失を負担する。
・徹底的な合理化計画が策定される。
・関係金融機関による、可能な限りの支援が実施される。


⑤概ね五年間は、民間金融機関への資金拠出要請、付加保険料の徴収、日銀の支援などの、特別の対応もやむをえない。