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工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

善意から子供を預かった「ふつうの人」の責任追及だけは厳しく行われたわけですが、特筆すべきはその後の展開でした。この一審判決をマスコミは、「近所の善意に厳しい判決」「隣人の好意につらい裁き」などという一方的な論調で報道しました。


その結果、全国から原告に非難中傷の嫌がらせかおり、その親の子供はいじめを受け、夫は会社も辞めさせられるなど社会的に厳しい制裁を受けて、原告は訴え自体を取り下げざるを得なくなりました(判決が出た後でも、相手の同意を得て訴えを取り下げることができます)。


この段階では、負けた方、過失があったと裁判所に認定された側か非難を受けたのではないのです。裁判で勝った側かそういう非難を浴びたのです。ちなみに、子供を交通事故などで死亡させた場合だと、賠償金の額はこのケース程度では済みません。この事件で裁判官は精一杯、被告夫婦に有利に解釈して、額をかなり抑えました。


しかも、通常の金銭支払いを命ずる判決ならば、第一審の判決段階で仮執行できる旨の文言が付くことも多いのですが、それもこの判決には付きませんでした。つまり、判決は出たけれども、原告は一銭も手にすべくもなかったのです。

軍事と経済のパワーは、いわば他を圧倒し、必要ならば屈服させて自国のいいなりにさせようとするものである。前節までに記したように、米国はこの両面で強力である。しかし、これに「文化力」が加わっているところに、今日の米国の真の強さがあるといってよかろう。


文化を「パワー」に結びつけるのは、本来似つかわしくない。むしろ「パワー」の対極にあって、各々の国、個々人に特有の、それぞれの価値を持つものである。強弱、優劣、上下とは無縁である。


ここで文化を力とつなげているのは、米国の国際政治学者などのいう「ソフトパワー」の概念にほかならない。すなわち、軍事力のように他者を屈服させる「パワー」ではなく、他者を喜んで同調させ、納得させるような理想、理念、構想、そしてファッション、スタイル、デザインなどである。これらをおおざっぱに「文化」としているのである。冷戦の両極を規定したイデオロギーもまた、この「ソフトパワー」の一要素であった。


勝てば官軍で、冷戦の勝者米国は、人類が長い歴史の過程を経て培った自由、民主、そして人道的公正という普遍的理想において、ソ連に勝ったのだとしている。確かに共産主義イデオロギーの下で、政治、経済両面の自由を奪われていたソ連とその従属国の人々にとって、米国をはじめとする西側諸国は、自由が保障された選挙に基づく議会制民主主義を持つ政治的にうらやましい存在であった。


また、自由な経済取引によって、結果的には旧ソ連圏以上の高い所得水準とより平等な分配を達成したことを誇る。今日のロシアで、旧勢力の共産党が力を回復しかけることがあっても、決定的なカムバックに至らないのは、とりも直さず米国などが奉ずる「自由、民主、公正」がソフトパワーとなっているからだとされる。


個々人の生活により近いレベルでは、米国の大衆文化である。米国の「文化人」にとっては、ジーパン、マクドナルド・ハンバーガー、コカコーラを米国の文化とされるのには抵抗があろう。確かに、ハンバーガーとコーラではあまり「文化的」とはいえまい。しかし、こうしたものが、世界各地で多くの人々に親しまれているのは事実である。


今日、多くの意味で米国と対極にある中国でも、例外ではない。政治的統制の中に自由経済の利点を導入し、経済発展を急ごうという郵小平以来の改革開放路線によって、「アメリカ」が大都市を中心にひたひたと浸透している。北京の町並みですぐ目につく「マクドナルド」は、麺類などに比べればややぜいたくな外食店だが、若者たちでいつもにぎわっている。


ハンバーガーのようなファーストフード・チェーンといえども、米国には他の追随を許さない何物かが備わっている。それは逆に、日本の対外進出には欠けている何かである。たとえば、キリンビールをはじめとする日本のビール企業は、一時期大きな資金力をバックにドイツなど欧州諸国やマレーシアなど近隣アジア諸国で「ビアレストラン」を開いた。


しかし、今日各社とも撤収にかかっている。キリンビールの場合、和風ビアレストランやステーキハウスを開いてきたが、香港、台湾、グアムは赤字。ドイツ、オーストリアは黒字だが、日ならずして採算割れとなる見込みで、二〇〇〇年中に全面撤退しようとしている。

日本の行政組織はすべてが中央に集中していることは事実であるが、霞ヶ関の内部では各省あるいは各局ごとにこれまた徹底して分権されている。これが縦割り行政といわれるもので、各省の局長、事務次官がそれぞれに独立した権力者なのである。


総理大臣といえども、これら権力者全員の同意を得て動くしかなかった。これ、が「官」による「政」のコントロールの実態である。閣議が事務次官会議で全員一致で決まった議案を承認する機関に成り下がっている真の理由がここにあり、阪神・淡路大震災やペルーの日本大使館の占拠事件など、危機の時にその限界が浮き彫りになった。


内閣機能の強化の狙いも、こうした官僚独裁の打破にあった。たとえば、国の内閣府のなかに、国務大臣、学識経験者などからなる「経済財政諮問会議」、「総合科学技術会議」、「中央防災会議」および「男女共同参画会議」を置くことになった(第十二条三項)のも一例である。


「経済財政諮問会議」を例にとると、首相、官房長官、関係大臣、有識者によって構成し、予算の編成など国の経済、財政の基本事項に関する政策立案を「政」主導で行うとされていた。予算はこれまで大蔵省、つまり官僚主導で編成されてきたので、もし、「経済財政諮問会議」が予算の基本方針を決定するようになれば、「政」の「官」に対する優位の確立におおいに役立つはずだった。しかし、第五章でみるように、「官」はこうした構想を反故にする逆転打を用意するのである。


欧米先進諸国へのキャッチアップを課題とした時期に形作られた現行省庁制度は、今日にあってはその総合性、機動性、効率性、透明性、国際性等の各側面においてさまざまな機能不全を生じている。しかし、二十一世紀の行政は次のような課題に応えなければならない。


(一)国際社会の平和と繁栄への貢献、国家主権の確保。
(二)わが国の平和・安全秩序の維持・確保。
(三)健全な財政の確保、通貨の安定、金融秩序の維持。
(四)産業競争基盤の維持・向上による強靭な経済の形成。
(五)国土の整備・開発・利用・保全。
(六)食料・干不ルギーの安定供給の確保。
(七)環境の保全と自然保護。
(八)少予局齢社会における国民生活・福祉の向上。
(九)創造的な人材の育成と先端科学技術、学術や文化の振興。