なぜ合理的な調整コースがたどれなかったのか。日銀は、アメリカにブッシュ政権が誕生した89年春、これを見とどけるかのように、ようやく超低金利政策を修正した。株式は同年末にピークをつけ、土地も遅れて90年をピークに急速に下落に転ずる。こうしたなかで、「インフレ・ファイター」と、主要メディアの歓呼の声に迎えられて登場した三重野康新総裁のもと、89年10月に続き、90年にも2月、8月と、6%まで公定歩合が引き下げられた。
一方、90年4月には、不動産融資に対する前年同期比の貸出しの伸びを、貸出総額のそれ以下にするという金融機関に対する総量規制が大蔵省によって実施された。しかし、土地の高騰への岡民の不満はなお根強く、これがピークをはるか過ぎたあとの「地価税」の導入にもつながっていった。
「バブル潰し」という国民的コンセンサスは、明らかに極端に走っていた。それも理由のないことではなかった。株価が低落しても保有株の裾野が広がっていなかったため、大多数の国民にとっては無関係な現象であった。地価が低落したといっても、「いまだ高すぎる」(これはそのとおりである)と、構造協議におけるアメリカ側の主張に根拠を与えるに見解がメディアで大きく取り上げられていたが、この場合、論者の多くは金融問題ではなく、あくまでも土地開題の「厚門家」であった。
このような世論を背景にして、今度はバブルの崩壊が、土地・株式連動の形で、90年代を通じ、いつ果てるともなく進行することになる。その価格水準は、双方ともピーク時の半分以下にまで下落して、単なる調整の域を超え、収拾不能の状態に陥ることになる。
そこには日本の経済社会特有の回質性、「乏しき重憂えず等しがらざるを憂う」疑似社会主義的な国民感情が、構造協議の風圧を受けて、いっそう強まったという事情があったものと思われる。国際政策協調に端を発した「作られた」バブルは、内圧・外圧の相乗作用のなかで息の根を止められ、急速に崩壊していったのである。
バブル経済とその崩壊は、80年以降の日米経済に見られた不自然な相互依存関係の、いわば総集編であった。ドイツがこうした事態を免れたのに対し、協調に忠実な日本の受けた打撃は大きかった。
ブッシュ政権では、レーガン政権時代の政策協調路線の演出者・べー力ー財務長官は国務長官のポストに移り、資本市場の直接の担当者ではすでになかった。アメリカ側か、日米構造協議において、バブル経済そのものの破砕をもくろんでいたのであれば、それ自体は成功であったといえる。
しかし、アメリカへのジャパン・マネーの流人が、バブルの含み益をバッファにして継続されていた事実を考えると、バブル潰しは資金流人のパイプを細くする結果を招来するだろう。アメリカ側はそこまで考慮に入れたうえで、なお日本側の資金力の源泉を叩こうとしたのか。
細くなるはずのジャパン・マネーの流れを補完する手当はすでについていたのか。それとも、公共投資430兆円の対米公約をもって成果とするつもりが、副産物としてバブルの崩壊まで呼び込んでしまったのか。そのあたりの断定は、なかなか難しい。
いずれにせよ、88年を通じて、共和党政権の継続を願い、アメリカの債券市場の安定をも自らの使命と考えたわが大蔵当局にとって、冷戦の終焉と同時に進行した新共和党政権の対日経済政策の変貌は、おそらく予期せざるできごとであったにちがいない。
まがりなりにも安定していた政策協調路線はここに終わりを告げ、アメリカの対日経済戦略は、これ以降、貿易収支の均衡と資金流人のはざまで綱渡りを続けることになる。