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工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

英国のディッチリー・パークにおいて、バークレイズ銀行のレスリー氏などの呼びかけで開発途上国向け融資問題についての会議が開かれ、私も、留学時代の同級生スターン君(当時世銀副総裁)など米欧日の民間・公的金融機関の幹部とともに出席した。すでに債務累積問題が憂慮されており、債務国の状況を的確に把握するために民間銀行の国際的組織を設けることが必要であるということになった。現在ワシントンにある国際金融協会(Institute for International Finance=IIF)は、この結論に基づいて組織されたものである。


ついで、同年七月上旬のOECD第三作業部会(WP3)には、事務局から、債務累積問題の深刻さについてのきわめて悲観的な現状分析を内容とする会議資料が提出された。この資料が討議されたことが周知された場合の悪影響を憂慮したマクマホン議長は、本資料をとり上げないことを提案し、私ども出席者も、現状のうちの比較的明るい面(たとえば同じ中南米の途上国の間でも、国により事情が異なり、これらをひとまとめにして悲観的に論ずることはできない、など)を強調することに努めたため、WP3の議論はきわめてお座なりなものとなった。しかし、危局はそれから1ヵ月余りのうちに到来した。


八月一四日の土曜日から暑中休暇をとりはじめていた私は、一五日、秘書の山口嬢から前川総裁が私を探しているという報を受け、これまた休暇をはじめたばかりの前川氏に電話したところ、ボルカー、ロイトビラー両氏より、「メキシコが債務の元利払いを停止せざるをえない状況となり、一両日中にバーゼルで一〇力国グループの総裁代理会議を開くことになった」と伝えてきたので、急行してほしい、ということであった。私は一七日出発、同日中に。パーセルに到着、一八日の会議に出席、メキシコの代表(フィリップス中央銀行理事、ブイラIMF理事゛から同国の実情について説明を受けた後、 一〇ヵ国グループでその対策を協議した。


各国のシェアを含む取極の細目が合意されるにはバーゼル会議後若干の日時を要したが、九月はじめのトロットにおけるIMF総会や一〇月中旬の東京における日銀百周年記念式典も、主要国首脳部による債務問題の討議の場となった。これらの討議の中心人物は、ドーラロジェーMF専務理事で、IMFの援助の条件として、大口債務国当局に対してきびしい財政金融政策の実施を求める一方、債権国政府の支援のみならず、民間銀行の融資(とくに危機直前の融資残高の維持)をきわめて強力に要請した。中央銀行側では、米国のボルカー議長が中心となり、自ら債務国側の陳情を受けながら、先進国側へは協力を要求し続けた。伝統的な中央銀行の機能を超える働きとみるものもあったかもしれないが、同氏は事態を国際金融界の一大危機としてとらえ、その克服のために労を惜しまず、他の主要国の総裁もこれに協力した。

1990年代の「失われた10年」を通じて明らかになったことは、戦後の日本の発展を支えてきた金融システムをはじめ行財政制度や福祉・医療・年金制度など、国民生活の土台が一様に構造疲労を起こしているということである。しかし、たまたま90年代後半からは情報革命が進み、ネットワーク社会が確かな形をとりはじめた。このため、インターネットを通じて制度疲労を克服していこうというNPO(非営利組織)の活動が、各方面から注目されている。


デジタル情報革命によって一方通行ではなく、双方向性を持ったインタラクション(相互交流)の社会が実現した。しかも、情報量や情報発信時間の制約が無い上に情報の蓄積が可能だし、ごく一部のニーズに応えることができるという、一昔前には考えられもしなかった特性を備えている。これが「官主導型」の日本社会を変える原動力になることが期待されているのである。


アメリカではNOPがネットワークの結節点となって、新たな社会システムの構築に一役買おうと積極的に活動している。1993年3月に設立された寄付金によって運営されているNPOのひとつである。カリフォルニアのシリコン・バレーといえば、スタンフォード大学を中心にベンチャー企業が軒を並べ、知識産業の集積地として世界にその名を知られたものであった。しかしその繁栄も1980年代前半までで、ほかの地域や海外の企業が台頭するにつれて相対的に活力の衰えが目立つようになった。


地域コミュニティを構成する企業や州政府、大学関係者は危機感を抱き、1992年に「ジョイントベンチャー・シリコン・バレー」と呼ばれる経済活性化委員会を政・官・民合同でつくり、翌1993年に「21世紀に向けた青写真」をまとめた。このプロジェクトには1,000人を超える人々が17のタスクフォースにボランタリーで参加し、44の構想が提唱され、現在、教育、環境問題など13のプロジェクトが進行している。


そのうちのひとつが、人々の結合を図ること、ビジネスの振興を図ること、雇用拡大を図ること、教育を活性化すること、医療のコストと質を改善すること、市郡などの地方政府の住民サービスを改善することなどが掲げられている。大学や行政、企業さらに社会参加意識の高い市民らによって複合的なネットワークを形成していることから、これを活用して特に在宅医療、遠隔教育、テレワーキングの実験に積極的に取り組んでいる。


九三年以降、連立政権の時代の突然の到来は、こうした自民党主導の安定的な「秩序」を崩壊させた。理念も政策も異なる政党が与党を構成することになり、結果的に、与党内各党間の政策上のねじれの調整に多くのエネルギーが費やされることになった。


とりわけ、羽田内閣を引き継いだ、自民、社会、さきがけによる村山内閣の登場は、五五年体制下で対立していた政党同士が与党を構成する結果となり、理念・政策面での調整に特に不安を覚えるむきが多かった。三党の結束の主たるよりどころは、前政権における新生党小沢代表幹事、公明党市川雄一書記長のいわゆるI・Tラインによる、強引な政策決定方式への批判であり、非自民政権に対する政策的な対抗軸ではなかったからである(非自民政権にも自民党に対する明確な政策上の対立軸はなかった)。


村山内閣にはじまる自社さ三党は、押し寄せる課題ごとに、(主として自民、社会の)政策調整を余儀なくされた。後に詳しくみるように、この各論の分野で、社会党がより多く、自民党に譲ることになった。しかし根本的な理念・政策について、社会党(社民党)は譲ることがなかったので、ねじれは解消しないままに、自社さ政権は四年間も存続することになる。本来、理念・政策的に近似の政党が内閣を組織するのが、連立政権の理想的なおり方であるとすれば、自社さ政権は過渡的な政権と言いうるであろう。


以下では、細川内閣、羽田内閣、村山内閣、橋本内閣、小渕内閣(自自連立)、それぞれの政権を構成した与党の政策上の相違は、どのようなものであったか、連立政権発足時に発表した政策合意などをもとに検証する。