このような心理の屈折を経てたどりついたアメリカであるから、スタンフォード大学に着いてからも、アメリカ式の学問を私は素直に受けいれたわけではなかった。私は日本では、アメリカ軍基地に対する反対運動や、原水爆禁止運動にも参加し、その経験にもとづいていくつかの論文を書いていた。また一九六〇年の安保反対運動に加わり、運動が挫折した後は新左翼の思想運動に参加したこともある。
私はやはりあの自分の経験の延長線上で、物を考えていたのであろう。言ってみれば私の頭のなかには日本で慣れ親しんだあの壮大な、天下国家に関する議論がまだ熱っぽく残っていた。アメリカ軍の基地に反対して座り込む、農民や漁民の姿があった。安保改定に反対して国会を取り囲む、何万というデモ隊のイメージが消えなかった。それにサンーフランシスコ郊外のスタンフォードという場所も、東京とは違いすぎた。
スタンフォード大学とは、そもそも大陸横断鉄道を建設して鉄道王となったリーランドースタンフォードが、自己の広大な牧場を、提供して建てた大学である。その広い敷地のなかに建てられた寄宿舎の一つにいると、昼間からフクロウの「ホー・ホー」という声が聞こえる。夕方になると日本では見ることのできないような、真赤な大きな太陽が荒涼とした原野のかなたの裏山に沈む。このように、人里離れて社会から隔絶した大学にいて人間は一体、社会科学などを勉強することができるのだろうか。
あの大学に着いたとき私は、真剣にこう考えたものである。私はこういう不満をよく同じ学部に留学していた日本人のY氏にぶつけた。心理学専攻で、しかもNHKの放送文化研究所に属するY氏にとって、あの実験心理学的なコミュニケーション学部は、まさにうってつけの場所であったのであろう。戸惑って反抗的になっている私にY氏は根気よく、心理学的方法の意味を説明してくれた。