工具マニアで困ってます -9ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

このような心理の屈折を経てたどりついたアメリカであるから、スタンフォード大学に着いてからも、アメリカ式の学問を私は素直に受けいれたわけではなかった。私は日本では、アメリカ軍基地に対する反対運動や、原水爆禁止運動にも参加し、その経験にもとづいていくつかの論文を書いていた。また一九六〇年の安保反対運動に加わり、運動が挫折した後は新左翼の思想運動に参加したこともある。


私はやはりあの自分の経験の延長線上で、物を考えていたのであろう。言ってみれば私の頭のなかには日本で慣れ親しんだあの壮大な、天下国家に関する議論がまだ熱っぽく残っていた。アメリカ軍の基地に反対して座り込む、農民や漁民の姿があった。安保改定に反対して国会を取り囲む、何万というデモ隊のイメージが消えなかった。それにサンーフランシスコ郊外のスタンフォードという場所も、東京とは違いすぎた。


スタンフォード大学とは、そもそも大陸横断鉄道を建設して鉄道王となったリーランドースタンフォードが、自己の広大な牧場を、提供して建てた大学である。その広い敷地のなかに建てられた寄宿舎の一つにいると、昼間からフクロウの「ホー・ホー」という声が聞こえる。夕方になると日本では見ることのできないような、真赤な大きな太陽が荒涼とした原野のかなたの裏山に沈む。このように、人里離れて社会から隔絶した大学にいて人間は一体、社会科学などを勉強することができるのだろうか。


あの大学に着いたとき私は、真剣にこう考えたものである。私はこういう不満をよく同じ学部に留学していた日本人のY氏にぶつけた。心理学専攻で、しかもNHKの放送文化研究所に属するY氏にとって、あの実験心理学的なコミュニケーション学部は、まさにうってつけの場所であったのであろう。戸惑って反抗的になっている私にY氏は根気よく、心理学的方法の意味を説明してくれた。

私は二十歳代で平和運動のために走り回り、三十歳代でアメリカの大学で研究者の生活を送ることになった。これは幸運なことだったと私は今でも思っている。確かにそれは大変な回り道だった。しかしその回り道のおかげで私は経験的世界と抽象的理論の世界を、それぞれ突っ込んだ形で経験することができた。私は今でも経験的世界と抽象的理論との往復は、個々の研究の過程だけに限るものではないと、思っている。経験と抽象との往復はもっと息の長い人生の過程で、繰り返すことのできるものだと思っている。このように息の長い経験と抽象との往復を繰り返すことによって、人間は骨の太い、広い視野を獲得することができるのではないだろうか。


一九六五年の冬、結婚して半年あまりの私たち夫婦は、古いクライスラーに全財産を積み込んでスタンフォードを離れた。行き先はサンーフランシスコ湾の対岸にある、バークレーの町だった。スタンフォードで修士の学位を取ることができた私は、バークレーのカリフォルニア大学で、博士号を取得するための勉強を、始めようとしたのである。このバークレーの町でその翌年には長女が生まれ、その後長男も生まれたから私たちは結局、二人の子供をこの町で育てることになった。私の学んだカリフォルニア大学は青い海をはさんで、対岸に白いサンーフランシスコの町と、赤い金門橋とを見る、緑の丘のふもとにあった。


あのキャンパスの丘にはサイクロトンがあり、原子力研究所がある。さらにこのバークレー・ヒルを登りつめた、キャンパスの一番高いところには、サイクロトンの発明者ローレンス博士を記念して、ローレンス科学館があった。あの科学館には青少年に、種々の科学や工学の原理を教える、電動のパズルやゲームがあった。日曜になると私はよくまだ幼ない長女を連れて、この科学館に出かけた。日曜には少年向きの医学や自然科学の、実験教室や公開講座があったからである。脳についての公開講座の時は、スライドやフィルムだけでなく、人間の脳の実物の標本を、子供たちに手で触れさせるという教育をしていた。


あの公開講座で子供に見せた実験のなかには浅い水槽に、燃えるローソクを立てて行う実験もあった。ご存じの読者も多いであろう。今燃えるローソクを、さかさにしたフラスコで覆ってやる。すると間もなくローソクの焔が消える。それは当然のこととして、驚くことに炎が消えるとほとんど同時に、さかさにしたフラスコの管を、水が急速に上昇するのである。つまりフラスコのなかでローソクが燃焼するために、酸素が欠乏してローソクの火が消える。それとほとんど同時にフラスコの中の気体の圧力が低下するのであろう。外界の気圧に押されて、フラスコの管のなかの水位が驚くほど高く上昇するのである。

六月の総選挙で労働党が圧勝したとはいえ、フレア首相は、経済の低迷や統合が進むECにおける英国の相対的地位の低下など数々の難問に直面している。経済でも、フランスやドイツにくらべて、貿易面でイギリスはアメリカへの依存度が年々増えており、今貿易額の一四パーセント(一九九九年)を占める。フランスやドイツの二倍である。ECにおける地位低下も大きな問題で、たとえばロンドンが占めてきた国際金融市場の地位がドイツのフランクフルトに奪われる可能性は、いよいよ現実のものになってきた。大英帝国没落以来のイギリスの危機といってもいい。


いまアメリカに恩を売っておいて将来の後押しを期待することは、十分考えられることである。イギリスの現実主義外交の面目躍如といった感すらある。シラクとフレアというヨーロッパの二人の主役が「アメリカ詣で」をすませたあと、堰を切ったように各国の首脳がブッシュ大統領とのアポイントメント(会談の予約)をホワイトハウスに求め、スケジュールが決まると次々に訪れた。九月一一日の同時多発テロ発生からの一ヵ月間、ブッシュ大統領と会談した各国首脳のリストは表にまとめた通りである。


このリストを見てわかるように、ブッシュ大統領はまずNATO主要国のフランス、ドイツ(外相)、イギリス、カナダの首脳と会談している。ロシアのイワノフ外相が、NATO主要国と同じタイミングでアメリカに飛んできたのも、じつに印象的である。インドネシアのメガワティ大統領が一番乗りのシラク大統領に次いで二番手としてブッシュ大統領と会っているが、これは以前から約束されていた就任の表敬訪問だった。しかしインドネシアは世界で最大のイスラム教徒をかかえる国であり、きわめてタイミングのいい首脳会談になった。両首脳は、テロとの戦いはイスラムとの戦いではないとアピールした。


こうしてみると、日本はNATO主要国に次いで比較的早く「アメリカ詣で」を果たしていることがわかる。しかしアメリカはどういう見方をしていたのだろうか。ホワイトハウスのフライジャー報道官は九月二一日のブリーフィングで、カナダの首相と日本の首相の訪問について「二つの首脳訪問について報告します。ブッシュ大統領はカナダのクレティエン首相を九月二四日、協議のためワシントンを訪問するよう招待しました。首相は招待を受け入れ、大統領と私的な昼食会を共にしたあとオーバルオフィスで会談いたします。さらに大統領は、九月二五日、日本の小泉首相が協議のためワシントンに来られるのを歓迎し楽しみにして待っています」と述べている。


カナダは「招待」であり、日本は「訪米歓迎」ということである。カナダはNATO加盟国の一員であるばかりでなく、アメリカとは六四〇〇キロメートルに渡って国境を接している。テロリストがカナダを経由してアメリカに入国している可能性があるとして、アメリカの司法当局はしばしばカナダの通関当局の手ぬるさを批判してきた。カナダは経済的にもアメリカの影響力をまともに受けていて、輸出額の七八パーセント(一九九九年)をアメリカに依存している。