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工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

慶子夫人の発病から、江藤さん自身の第一回目の退院までのことをつぶさに書いたのが「妻と私」である。世間では亡き妻への鎮魂記などと言っているが、鎮魂記でもあろうし、亡き妻への手紙でもあろう。実は私は、「新潮」から、その「妻と私」の書評を頼まれていて、江藤さんの本だもの、何か書いてみます、と同誌の宮辺さんに答えたものの、こういった本についてはどういうことを書けばいいのか、江藤さんの悲しみを想像して、胸つぶれる思いになるばかりであった。こういう本には解説はいらない、評もいらない、書評と言って、何を評するというのだ。ただ、江藤さんの悲しみを、自分流に想像して、ひそかに、つらい思いをしていればいいのだ。思いがこんなふうになると、何も書けないが、これは、私には、なんともつらい、悲しい本である。


どのへんがつらいか、というようなものではない。全部、各行、つらい。もちろん、あと三ヵ月から五ヵ月ぐらいの末期癌だと宣告されたときの江藤さん。それを告知しないことにきめて、家庭で、病室で、対い合っているときの江藤さんの心の襟。仕事で夫人の側を離れる間も時ばたつ。夫人と一緒にいる時間は、刻々に減る。絶えることなく、時間が過ぎて行く。悲しくない時間は一刻もなかったであろう。その刻々の江藤さんの心の襟を想像すると、想像が及ばなくても、胸がつぶれる。


慶子夫人もまた、亡くなるまでに、多くのことを感じ、思ったはずである。その心の襟は慶子夫人でなければわからないが、夫人の病状がかなり悪化して痛み止めのモルヒネの投与を受けるようになった十月半ばの午後、「もうなにもかも、みんな終わってしまった」と、誰に言うともなく夫人が言い、それを返す言葉もなく聞きながら、夫人の両手を握り締めている江藤さんの思い。江藤夫妻が、こんな寂しい時間を持ったのだと思うと、私はたまらないよ。


前記のように江藤さんは、夫人の葬儀の当日に、急性前立腺炎と感染症で入院して危篤になるが、死線を越えて、一度退院する。だが今度は脳梗塞で倒れ、またも入院するのである。江藤さんの脳梗塞は、軽症だと伝えられたが、夫人を失った後、続いて襲って来た病気は、江藤さんから生きる力を奪ってしまったであろう。脳梗塞が、それでなくても、みんな終わってしまった。と思いがちな江藤さんの気持ちを最後に決めたのでしょうね。もうすぐ私も、みんな終わるでしょうが、江藤さん、長い間、いろいろとありがとうございました。

水星は月と同様、小さくて大気をもたない天体である。その地表はクレーターでおおわれ、その点では月とよく似ているが、過去の火成活動の跡はそれほど顕著ではない。水星を特徴づけるのはその密度である。それは太陽系でもっとも高い。地表は月と似たケイ酸塩岩石でおおわれているが、その密度から考えて内部は分化しており、地球のコアのような鉄ニッケル合金でできていると考えられている。そのコアの大きさは直径の三分の二ぐらいを占める。弱いが地球磁場と似た双極子磁場の存在が確認されており(地球磁場 の強さの一〇〇分の一くらい)、その点からもその内部が分化し、その組成が地球のコアと似ていることが示唆される。

水星は小さく、太陽に近く位置するため、地球からの観測はむずかしい。地表のデータとしては、一九七四年のマリナーー〇号の撮影した画像のみが知られている。しかし、それは水星の地表の半分くらいをカバーするだけで、残りは未知である。そのなかで特徴的な地形は、逆断層と考えられている断崖地形である。このような地形は水星以外では観測されていない。これは水星が収縮した結果つくられたのではないかと考えられている。

地球からの観測として重要なものはレーダー観測である。レーダー観測により、水星の異常な自転周期が決定された。水星は太陽のまわりを八八日で一周するが、水星の自転周期はその三分の二である。公転周期と自転周期がこのように整数比関係になるのは、中心天体の潮汐力(引力により天体が変形し、そのことにより生じる力のこと)の効果によるもので、このような例はこの他にもたくさんある。惑星の近くをまわるほとんどすべての衛星は、公転周期と自転周期が一対一の関係にある。月が地球にいつも同じ面を向けているのはこのためである。水星のそれが一対一の関係にないのは、水星の軌道が大きく偏心しているためであろうと考えられている。

金星はそのサイズ、組成が地球とよく似ているにもかかわらず、大気、テクトユクスなど異なる点が多い。自転は非常に遅く、しかも逆向きで、地表は絶対温度で七三〇Kの高温で、大気圧も約九〇気圧に達する。大気は主に二酸化炭素からなり、少量の窒素、アルゴンがふくまれる。微量な大気成分として二酸化硫黄、塩酸、弗酸なども存在する。太陽光はわずかに(数パーセント程度)地表に到達するが、地表からの赤外放射はほとんどが大気中の二酸化炭素に吸収されるため、地表は高温にたもたれている。

太陽に近く、自転が逆向きで遅いため、金星の大気運動は地球のとはたいへん異なる。下層大気ではパトレー循環(南北方向の熱輸送に伴う大気の対流運動)が卓越しているが、高度五○キロメートル付近の雲層では秒速一〇〇メートルものスーパーローテーション(大気運動のほうが惑星の自転運動より速いこと)が観測されている。

いくら何かを教えたとしても、教わった方は、それを自分なりにアレンジして自分の味にしてしまう。料理のレシピにも同じことが言える。つ兪り、いくら先生に教えてもらっても、同じ弾き方はできないはずなのに、それをわざわざ「同じ弾き方をするな」というのは、放っておけば、弟子は師匠と同じ弾き方をしようとしてしまうということなのではないか。また、別の解釈をするならば、こう言うことにより、「違っても構わない」と許可を与えていたとも考えられる。これは16世紀頃からの習慣だそうだが、日本において「同じ」を志向することがどこまで社会の基準になっているか、ここからも垣間見ることができる。国民としては「違う」と言われたいのに、国民一人ひとりは「同じ」にしておきたい。これはある意味矛盾である。日本人として誇りを持つためには、一人ひとりの違いを認めることが必要なのだと、日本人は気づくべきではないだろうか。


私の母校の創立者で、『タイム』誌によってマザー・テレサ、ダライーラマらとともに現代の五大聖者に数えられたJ・クリシユナムルティは、「あるがままのものを、あるがままに見よ。非難せず、正当化せず、自己を他のものと同一化もせず、あるがままのものをあるがままに認識した時、私たちはそれを理解することができるのだ」という言葉を残している。私たちは、生まれ育った国や土地の習慣(コンディショニング)を通してお互いと接しているが、本当にその「習慣」がその人そのものなのだろうか。人はコンディショニングという洋服を通して付き合っているが、その中にいるあなたは誰なのかということだ。人間の本質は皆同じ、というのが私の考えである。日本人とは何か、ということをつきつめて考えると、日本語を話すことや、同質なものを美しいと感じることが日本人ではないはずだ。人間が求めているのは勇気だったり、思いやりだったりするから、勇気や思いやりのある人を「日本人らしい」と誇りにするのではないだろうか。


2008年に起きた四川大地震で、日本人救助隊が母子の遺体に黙祷を捧げたことに対して、中国の人々から「感動した」という感謝の声が寄せられた際、「さすが日本人らしい行動だ」と誇りに思った日本人は多かったはずだ。だが、もしもアメリカの救助隊が同じことをしたらどうだろう。「さすがアメリカ人の中のアメリカ人」とアメリカ人は思い、韓国の救助隊が同じ行動をとったなら「さすが韓国人の鑑」と韓国人は思うのではないだろうか。つまり、「自国人らしい」と誇りに思いたいことは万国共通なのだ。私たちが誇りに思う「自分たちらしさ」とは、実は文化や習慣などのコンディショニングではなく、その内側にある本質である。一方、「○○だからあなたは違う」と言う時の「○○」も同様だ。例えば夫婦ゲンカはどんな夫婦にもあって、インド人同士でも、日本人同士でも、インド人と日本人でも、同じように起きる。ただ?その時、お互いインド人同士や日本人同士でケンカしている時には「あなたがインド人だから」とか「日本人だから」と言うことはないだろう。それが、インド人と日本人であれば、それは目立つ理由の一つだから、ついつい「あなたが○○人だから」と言いがちである。


「○○人だから」で片付けることの落とし穴、生まれていきなりコンディショニングの繭の中に入れられた上、ほとんど同じコンディショニングの人としか接することがない場合は、コンディショニングされていることすら気づいていない人が大多数だろう。だが、インドでは、同じインド人であっても言語や出身州が違うと、外国人と言っても差し支えないほどの違いがある。だからと言って、別の州や別言語の人とケンカした時、「お前はパンジャーブ州の出身だから」などと、それを理由にはしないのだ(実は内心そうしたくなる人もいるが、それはケンカを本当に爆発させてしまうことも経験からよく知っているので、大体はその道を避けている。これも多彩性の中に生きている人々の、体で覚えた知恵なのだ)。それが当たり前だから、インド人から見ると、日本人が「○○人だから」と言うのは、替えればケンカのたびに「お前は○○大学出身だからそういうことを言うんだ」と、受けてきた教育を引き合いに出すような違和感を覚える。


そういうことを理由に挙げるのは合理的でないと思えるのだ。また、その時ただ「インド人だから」と言うのではなく、インド人だから「何が」できていないのかを洗い出して、だからどうすればよいのかを追求しなければ、問題をカーペットの下に入れているのと同じだ。人種や生まれ、受けた教育など、出身は変えようがないのだから、それを理由にしたら終わりなのだ。悲しいことに、日本人との仕事の中では、「インド人だから」または「外国人だから」という理由で片付けられてしまうこと、もっと正確に言うと、受け入れられないことがとても多い。例えば、インド人は、サイズの違いを大きな課題であると認識しない。だから、サイズが予定より2ミリ違うということがある。そんな時、「インド人だから2ミリ違うのだ。言っても仕方ない」とあきらめて欲しくないのだ。同じ間違いがあっても、もし相手が日本人だったらどうだろう。なぜ2ミリ違うと困るのか、その違いのせいで物が入らなくなってしまうとか、扉が閉まらなくなってしまうとか、具体的に説明するだろう。