いくら何かを教えたとしても、教わった方は、それを自分なりにアレンジして自分の味にしてしまう。料理のレシピにも同じことが言える。つ兪り、いくら先生に教えてもらっても、同じ弾き方はできないはずなのに、それをわざわざ「同じ弾き方をするな」というのは、放っておけば、弟子は師匠と同じ弾き方をしようとしてしまうということなのではないか。また、別の解釈をするならば、こう言うことにより、「違っても構わない」と許可を与えていたとも考えられる。これは16世紀頃からの習慣だそうだが、日本において「同じ」を志向することがどこまで社会の基準になっているか、ここからも垣間見ることができる。国民としては「違う」と言われたいのに、国民一人ひとりは「同じ」にしておきたい。これはある意味矛盾である。日本人として誇りを持つためには、一人ひとりの違いを認めることが必要なのだと、日本人は気づくべきではないだろうか。
私の母校の創立者で、『タイム』誌によってマザー・テレサ、ダライーラマらとともに現代の五大聖者に数えられたJ・クリシユナムルティは、「あるがままのものを、あるがままに見よ。非難せず、正当化せず、自己を他のものと同一化もせず、あるがままのものをあるがままに認識した時、私たちはそれを理解することができるのだ」という言葉を残している。私たちは、生まれ育った国や土地の習慣(コンディショニング)を通してお互いと接しているが、本当にその「習慣」がその人そのものなのだろうか。人はコンディショニングという洋服を通して付き合っているが、その中にいるあなたは誰なのかということだ。人間の本質は皆同じ、というのが私の考えである。日本人とは何か、ということをつきつめて考えると、日本語を話すことや、同質なものを美しいと感じることが日本人ではないはずだ。人間が求めているのは勇気だったり、思いやりだったりするから、勇気や思いやりのある人を「日本人らしい」と誇りにするのではないだろうか。
2008年に起きた四川大地震で、日本人救助隊が母子の遺体に黙祷を捧げたことに対して、中国の人々から「感動した」という感謝の声が寄せられた際、「さすが日本人らしい行動だ」と誇りに思った日本人は多かったはずだ。だが、もしもアメリカの救助隊が同じことをしたらどうだろう。「さすがアメリカ人の中のアメリカ人」とアメリカ人は思い、韓国の救助隊が同じ行動をとったなら「さすが韓国人の鑑」と韓国人は思うのではないだろうか。つまり、「自国人らしい」と誇りに思いたいことは万国共通なのだ。私たちが誇りに思う「自分たちらしさ」とは、実は文化や習慣などのコンディショニングではなく、その内側にある本質である。一方、「○○だからあなたは違う」と言う時の「○○」も同様だ。例えば夫婦ゲンカはどんな夫婦にもあって、インド人同士でも、日本人同士でも、インド人と日本人でも、同じように起きる。ただ?その時、お互いインド人同士や日本人同士でケンカしている時には「あなたがインド人だから」とか「日本人だから」と言うことはないだろう。それが、インド人と日本人であれば、それは目立つ理由の一つだから、ついつい「あなたが○○人だから」と言いがちである。
「○○人だから」で片付けることの落とし穴、生まれていきなりコンディショニングの繭の中に入れられた上、ほとんど同じコンディショニングの人としか接することがない場合は、コンディショニングされていることすら気づいていない人が大多数だろう。だが、インドでは、同じインド人であっても言語や出身州が違うと、外国人と言っても差し支えないほどの違いがある。だからと言って、別の州や別言語の人とケンカした時、「お前はパンジャーブ州の出身だから」などと、それを理由にはしないのだ(実は内心そうしたくなる人もいるが、それはケンカを本当に爆発させてしまうことも経験からよく知っているので、大体はその道を避けている。これも多彩性の中に生きている人々の、体で覚えた知恵なのだ)。それが当たり前だから、インド人から見ると、日本人が「○○人だから」と言うのは、替えればケンカのたびに「お前は○○大学出身だからそういうことを言うんだ」と、受けてきた教育を引き合いに出すような違和感を覚える。
そういうことを理由に挙げるのは合理的でないと思えるのだ。また、その時ただ「インド人だから」と言うのではなく、インド人だから「何が」できていないのかを洗い出して、だからどうすればよいのかを追求しなければ、問題をカーペットの下に入れているのと同じだ。人種や生まれ、受けた教育など、出身は変えようがないのだから、それを理由にしたら終わりなのだ。悲しいことに、日本人との仕事の中では、「インド人だから」または「外国人だから」という理由で片付けられてしまうこと、もっと正確に言うと、受け入れられないことがとても多い。例えば、インド人は、サイズの違いを大きな課題であると認識しない。だから、サイズが予定より2ミリ違うということがある。そんな時、「インド人だから2ミリ違うのだ。言っても仕方ない」とあきらめて欲しくないのだ。同じ間違いがあっても、もし相手が日本人だったらどうだろう。なぜ2ミリ違うと困るのか、その違いのせいで物が入らなくなってしまうとか、扉が閉まらなくなってしまうとか、具体的に説明するだろう。