工具マニアで困ってます -11ページ目

工具マニアで困ってます

営業職なのに工具大好きで、営業中にホームセンターに入り浸り・・・

日本人は母性原理を基調にしながらも、適当に父性原理を入れこんでバランスをとっていることがわかる。たとえば、入学試験には相当な父性原理が入っているし、その他のことでも血縁を優先して社会の一般的ルールを破ることが少ない。このことが、日本が他のアジアの国に比して、いち早く欧米の文化を受けいれることができた要因のひとつであると考えられる。話はフィリピンから離れるが、血縁を基にする徹底した母性原理は、アジアの国々の近代化を阻む強い要因となっていると思われる。お隣の韓国は近代化に向けて努力を続けているが、よく知られているように韓国の同族意識は非常に強い。誰かが大統領になると、どうしても自分の一族を要職につけねばならなくなる。というわけで、なかなか才能によって人材を登用することが難しい。

それに反対する勢力は、もちろん大統領の非合理な行為を追及することになるが、自分がそれになり代わっても同様のパターンを続けることになってしまう。このことをどのように克服していくかは韓国の課題ではないか、と思われる。これは隣国から勝手に想像していることに過ぎないのだが。中国は少し様相を異にするようである。中国も血縁を非常に大切にする国である。国家などという単位ではなく、自分の属する「大家族」によって、自分の存在意義を考えているのではないかと思われるのが「文革」以前の状態ではなかったろうか。中国の人たちが国外に出ても安泰感をもちながら生きているのも、この「家族」による支え合いの強さによるものと思われた。

しかし、私か個人的に話し合った中国の人たちは、次のように語っていた。「文革」のときに政府が密告を奨励し、家族間にもそれが生じてお互いの信頼感をなくしてしまった。おそらくこれは、家族ではなく中国政府にアイデンティティの基盤をもたそうとした政府が意図的に、密告を奨励したのではなかろうか。したがって、中国人は頼るべきものを失ってしまって、しばらくは政府を頼みとするより仕方ない状況だった。しかし、最近になると、結局はまた「家族」を基盤とする生き方に徐々にもどりつつあるとのことである。これは、私か個人的に意見を聞いた、二、三の人の考えである。しかし、私には十分一般化し得ることのように感じられた。このことは今後の中国における重要な問題点になる、と思われる。

話をフィリピンのことにもどそう。フィリピンでアメリカ人や日本人に会って話を聞くと、フィリピン人は約束を守らない、と不満を言う人が多かった。約束の時間に三時間くらい遅れてくる。時には来ないこともある、と言う。フィリピンの人によると、何か約束があって行こうとしているときでも、昔の恋人にひょっこり出会ってなつかしく思うとそちらの方に時間を使ってしまう。そちらの方が大切だったり、面白かったりするからだ、とのこと。おそらく時計で計られる時間にやたらに縛られるのは父性原理に厳しいプロテスタントの倫理ではなかろうか。倫理の基準はひとつではなく、各文化はそれぞれの倫理観をもっているのだ。フィリピン人の時間の感覚も、人生を楽しくするためのひとつの方法だろうと思う。

ところで、フィリピン人の経済水準の差は実に大きく、途方もない金持もいるし、まったくお金のない人もいる。後者の人たちが住んでいる地区へも行ったが、ひとつ非常に印象的だったのは、子どもたちの表情が実に生き生きとしていることであった。トカゲをつかまえてふりまわしている子、コカコーラはIびん買うことなどできないので、小さい紙コップ一杯を買うのだが、それを飲んでいる子、それらの子はほんとうに素晴らしい顔をしていた。ところが、大金持の家庭に招かれていったが、食事や家具やら驚くほど贅沢にしているが、子どもたちの顔は、ぞっとするほどの無表情なのである。実はそれから何年か経って、日本にもバブルという時代が来たが、そのときに日本の子どもたちの表情がだんだんとフィリピンで見たお金持の子どもたちのそれに似てくるように感じたことがある。

自分たちの文化と切れて、借り物によって「豊か」になると、人間の感情は貧しくなるのだろうか。異文化をほんとうに自分のものにする、というのは大変なことなのではなかろうか。アジアの国々はすべて欧米の文化を取り入れ、今後も取り入れていくことになるが、その先どのようになるだろうかと思う。よほどよく考えていないと、昔話などによくあるように、悪魔にたましいを売ってたくさんの財産を得た人間のようなことになるのではないか、と思う。日本でも既に無表情、無感動の若者たちが増えているように思う。



Kさんに意見を聞いてみたことはないが、私は以来、シンガポールのようにけっしてイメージの重層化をもたらすことのない都市は、合理的でテクニカルな近代を延長させたものにすぎず、何ら未来的なイメージをかきたてるものではないと思うようになった。日本人は自然音や母音を言語脳(左脳)で聴いている。自然環境の保護を訴える文章などの中で、自然を作為的に擬人化して語る表現をよく見かけるが、そういうのは個人的に好きではない。自然と人間とを混同させようとの意図がすけて見えてくるからである。しかし、無作為にあるいはそれとなく擬人化された表現はスッと心に入ってくる。〈うららかな春の日の小川のせせらぎ、静かな秋の夜の虫のなき声、冬枯れの野をわたる風の音、季節はいつもそんな自然の音のささやきとともにやってくる〉


稚拙な文章で申しわけないが、とくに口本の自然環境にはこれくらいの、それとない擬人化の表現がふさわしく感じられる。もちろん、自然を擬人化する表現それ自体は世界共通のものだから、「自然がささやく」つまり「自然が小さな声で話しかける」という表現の奥行きには、理屈を超えたある種の人類に共通な感知の構造が潜んでいるのだろう。自然の音を直接聴く体験では、自然が発する音は無意味な音にすぎないが、そこに諸個人の擬人化の情緒が加担することによって、自然の音があたかも意味ある言葉であるかのようなイメージをもつことができる。人間と自然の音とはそんな関係にあるのだと当然のごとく思ってきたが、口本人についてはそうではないという。それを知ったときは大きなショックだった。


角田忠信氏の研究によれば、日本人は自然の音や母音を言語脳(左脳)優位の状態で聴いており、欧米人などはそれを升言語脳(右脳)優位の状態で聴いていることが、実験的に確認されている。これは脳波の電位差の分布で脳の働きを知ろうとする研究から得られたものだ(角田忠信著『日本人の脳』大修館書店)。この研究結果からすれば、日本人は川の流れの音、虫の音、風の音などの自然の音を、直接「ささやき」として、つまり言語と同じように受け入れて聴くという体験をしているのである。正確にいえば、このような反応を示すのは「日本人」ではなく「日本語族」である。さらにいえば「日本語で幼少期を過ごした人」ということになる。日本語族と同じ反応を示すものは他に唯一ポリネシア語族があるだけだ。他のすべての語族は中国語族でも韓国語族でも、一様に欧米語族(インドーヨーロッパ語族)同様の反応を示しているのである。


日本語族とポリネシア語族以外の語族に属する人々は、自然の音を機械音などの雑音同様、非言語脳で聴いているというから、おそらく私もそうやって聴いているに違いない。しかし日本人にとって自然の音は、はっきりと他の雑音と区別され、あたかも意味ある言葉であるかのように耳に響いている。これはいったい、どのように考えたらいいことなのだろうか。私にはこの事実の中に、「日本人とは何か」の答えが濃密に圧縮されて存在しているように思われてならない。たとえば、この事実は私に次のような体験を鮮やかに思い起こさせてくれる。ずいぶん前になるが、ある山村の田舎道で、道端に背中を向けてしゃがみこみ、何やらひとりごとをいっている老婆と出会った。よく見ると老婆は、小さな一輪の花に手を差しのべ、「うんうん、ああそうなの? 可愛い子ね、頑張って大きくなってね」と話をしているのである。


まるで子どもに話しかけているようだったが、あたりには私以外に誰もいなかった。その花は、気づかずにうっかり踏みつぶしてしまったとしても仕方のないような、およそ人目をひくことのない小さな存在だった。韓国人ならば、墓の前で死者に語りかけることはあっても、まず花に話しかけるようなことはしない。しかも、ごく日常的な場面で日常会話そのままに花に話しかけるなど、私にとっては夢の中でしかあり得ないことだった。不思議に思って知り合いの日本人にこの話をしてみると、誰もが「そういう感じはよくわかる」というのである。その老婆は特別な人だとか、少々おかしな人だとか、そういうたぐいの感想はまったくもって返ってこなかった。ほんとうに花と人が言葉をもって会話をしたのかどうかが問題なのではない。とくに意識することなく、日常的な習慣であるかのように、無作為に自然の擬人化か行なわれていることに注目すべきである。


考えられることは、日本語を環境とする日本文化では、古い時代に自然を人(神)のように見なした意識のあり方が、習俗のレベルで延々と保存され続けてきたのではないか、ということである。そこに、自然の音に対して日本人の脳が特異な働きを見せる理由もあるのではないだろうか。かつて人類には共通に、自然物や自然現象を人と同じように見なした時代があったと推測される。たとえば日本の古典によれば、古い時代には土地にエヒメ(愛媛)とかイヨリヒコ(讃岐)とかの人名をつけたり、潮流や急流の瀬をタギツヒメとかセオリツヒメとかの人名で呼んだりしていたことがわかる。また草や木が人のように話をしたとも記されている。




日本人の倫理を考える上で、次のようなエピソードを紹介する。ヨーロッパのある国の外交官と話し合ったことである。彼は相当なお金の入った財布を、東京で落としてしまった。大都会のことなので出てくるはずはないとあきらめていたら、しばらくして警察から呼出しがあり、拾った人が届けてくれたことがわかった。世界中の大都会のなかで、こんなことが起こるのは、日本だけだろう、と彼は言う。日本人の倫理観の高いのには、ほんとうに驚いたという。私は外国の友人からこのような話をよく聞かされる。京都駅の切符売場に高級カメラを忘れたが、新幹線で東京へ行ってから気づいて駅で言うと、ちゃんと京都駅で保管してあったとのこと。このときも、こんなことは日本以外ではまず考えられないという賛辞がついていた。


ところで、財布が返ってきて喜んだ外交官は、日本人の倫理をほめた後で、それにしては、どうして日本の政治家は、あれほど悪いことをするのか、と言う(このときは、まだ官僚のことは話題になっていなかった)。収賄の状況などを新聞で読むにつけて、こんなことをどうして平気でするのかと思う。ヨーロッパの国々では、こんなことは起こらない。一般の人々の倫理観と、「偉い」人の倫理観にあまりにも大きいギャップがある。これはどう説明されるのか。これに対して、もともと倫理観の低い人間が政治家になるのだ、というのは安易すぎる答である。最近の新聞を見ると、倫理の問題を問われているのは、政治家だけではないことがよくわかる。とすると、巷でときどき言われるように、「偉いさんたちは悪いことをしている」という考えはどうであろう。


「われわれ庶民は営々とマジメに働いているのに、偉いさんは悪いことばかりしている」という考えである。ここで不思議なのは、そう言っている人たちが、抗議のだめに何かするか、と言えば何もしない。それどころか、「悪い偉いさん」を選挙によって、もう一度選んだりする。これらのことを考えると、どうも、他国の外交官の指摘した、日本人の間の「倫理観のギャップ」は、やはり「日本の問題」として、取りあげて考えてみるべきだと思われる。倫理のギャップを感じさせる事象は他にもある。一九九五年に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件について、作家の村上春樹が被害者にインタビューを行い、報告をしている(村上春樹『アンダーグラウンド』講談社、二九九七年)。そのなかに日本人の倫理のギャップの大きさを感じさせるところがある。


それはインタビューを受けた人々は実に仕事熱心で、着実に生きている人が多い。これらの人々の努力によって日本社会が支えられている、とさえ感じる。それに対して、加害者となったオウム真理教の信者たちの倫理はどうであろう。彼らは、悪いと知りつつ殺人をしたのではなく、自分たちの倫理に基づいて人を殺した。ここにおいて、殺された者と殺した者との間には、大きい倫理観のギャップがある。これらは、まったく無関係と言うべきだろうか。殺された人たち、つまり、日本の一般人のもつ倫理に、オウム真理教の倫理を生み出すような要因はなかったのだろうか。倫理や道徳のことを論じる際のよくある傾向として、昔がよかったことを述べた後に、「現代の人間の倫理も地に堕ちた」と嘆くのがある。


マスコミなどで、政治家、官僚などの悪について述べた後に、「日本人の倫理」の堕落が嘆かれる。しかし、『アンダーグラウンド』を読むと、「日本人はよくやっているな」というような感じがしてくる。これは、地下鉄サリン事件の被害者の調査である。ところが作家の筆によって、一人ひとりの被害者の姿が描かれると、短い文のなかにも、その人の倫理観、人生観などが浮かびあがってきて、これは、はしなくも、日本人の倫理観の個人調査をしたような結果をもたらせてくれる。そのなかで、たとえば、地下鉄職員がいかにして地下鉄を時間どおり走らせることに努力を払い、それに誇りをもって働いているか、ということがひしひしと伝わってくる。


ところで、収賄などの悪をはたらいた政治家や官僚も、道に落ちている財布を拾ってもあんがい警察に届けるのではなかろうか。そして自分の担当している職務としての個々の仕事については、前述した地下鉄職員に似たような熱心さと誇りをもって、「お国のために」働いているのではなかろうか。たとえば、エイズ薬害事件で逮捕された医者が、自分は患者のために頑張ってきたようなことを言うのを聞くと、強引にごまかそうとしているのかも知れぬが、本人も実はそのとおりに信じており、ただ自分の犯した悪については、上手に無意識のままでいるのではないかと思ったりする。つまり、同じ日本国民のなかで、倫理性の高い庶民と倫理性の低い高位高官が無関係に並存しているのと同様のパターンが個人の心のなかに生じているのではないか、と思われる。要するに、悪に対する自覚、意識化が弱すぎるのである。