アジアなる概念は「茫漠としたもので、同質的な文化なり、何らかのアイデンティティをもつものではない。当然のことながら、われわれの『アジア像』はつねに分裂している」と中見立夫氏はいう。地域というものには、それが「世界の諸地域」であればなおさらのこと、「国内の諸地域」においてでさえ、生得的に定まった概念など存在しない。
ましてや東南アジアのごとき地域を想定すれば、ここはまずは地理的に錯綜をきわめており、のみならず古くからヒンズー教、仏教、イスラム教、キリスト教といった大宗教、大伝統が幾度となくこの地に支配と教化の口上フーをかけ、さらに近代にいたってはさまざまな帝国主義列強が押し寄せて、暴力的に人種の混淆をつくりだしてきた。
したがってアジアとは何かと問われてもなし得るのは、再び中見氏の表現をもってすれば、「アジアを構成する国家や地域そして民族をわれわれは、過去どのように認識し、接近しようとしたか」についての分析結果を示すことでしかあり得ない。しかし、この分析はすこぶる重要である。なぜならば、われわれのアジア地域認識のスタイルの中に、日本人の自己認識が鮮明に浮かび上がってくるからであり、そうすることによって鋭い自己省察をわれわれが迫られるからである。
その上うな視点から眺めれば、本書は実に興味深い作品である。浜下武志氏は、日本人は外に対しては「地域的自己認識よりも、よりいっそう『くに』としての自己主張にみずからを絶えず凝縮してきた」という。日本は、中国を中心とした東アジアの「華夷秩序」においても、ヨーロッパ近代の国際関係に対比してみても「国家」としての自立性を強調するという点で抜きんでており、自他を峻別するという態度を持続してきたと主張している。
ここで浜下氏が表明したいのは、われわれ日本人にはアジア認識に不可欠な「日本人の相対化」が欠如しているのではないかという危惧なのである。アジア論盛行の今日、アジアの多義性、歴史性をあえて強調し、新しいアジア像の創造を求める筆者たちの真摯に敬意を表したい。