「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -98ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

2025年4月総大会

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約30:6

また、彼のあらゆる苦難を自分の苦難とし、彼とあなたが救い出されるように、祈りと信仰をもっていつもわたしに向かって心を高くしなさい。わたしは彼に、レーマン人の中にわたしの教会を築き上げる力を与えたからである。

 

「贖い―すべてを受けるためにすべてをささげる」2004年4月、ブルース・C・ヘーフェン、七十人

ドナのように自らを完全に奉献し,そのためたとえほとんどであっても十分な人々がいます。

 

例えば,ヨーロッパや同じような場所で多くの人に拒まれながらも,傷ついた心をささげ続ける多くの宣教師たち。

 

極限状態に追い込まれて神を知った手車隊の開拓者たちもそうです。彼らにとって,主を知るために支払った代価は,特権でした。

 

最善を尽くしながらも,娘の選択を変えることのできなかった父親。彼はアルマが息子にしたように,必死で主に近づき,懇願しました。

 

夫の弱さにもくじけず長年励まし続け,ついに夫の心に悔い改めの兆しを見ることのできた妻。彼女は「キリストが自分を見てくださっているように,夫を見ようとしました」と言いました。

 

長年心身の障害に苦しむ妻に寄り添い,それを「彼女の病気」ではなく「二人の小さな試練」と呼んでいる夫。彼は結婚の領域において,妻の苦難を自分の苦難としたので。教義と聖約30:6参照) それはちょうどキリストが無限の領域で人々の「苦難を自分の苦難と」教義と聖約133:53参照) されたのと同じでした。

 

第三ニーファイ第17章で,破壊,疑い,暗闇を耐え抜いた人々は,イエスとともに神殿に集まりました。大いなる驚きの中,何時間も主に耳を傾けた民は疲れ果て,主の言葉を理解できなくなりました。イエスが去ろうとされたとき,民は涙を流して主を見詰め,とどまって悩める者や子供たちを祝福してくださるようにと懇願しました。御言葉は理解できなくても,何よりも主とともにいたいと望んだのです。主はとどまられました。彼らのほとんどは十分だったのです。

 

ブログ主注釈:「ほとんどであっても十分」という表現は、ある限界や不足があったとしても、それが贖いによって補完されることを、私たちの努力や献身が完全ではなくても、最善を尽くすなら、救い主の犠牲や恩恵によって十分な結果がもたらされることを示唆しています。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

2025年4月総大会

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

教義と聖約30:2

それどころか、あなたの心は、あなたの造り主であるわたしにかかわる事柄や、あなたが召された務めよりも、世の事柄のうえにあった。そして、あなたはわたしの御霊やあなたの上に置かれた人々を心に留めず、わたしから命じられていない者たちに説きつけられてきた。

 

「無私の奉仕」2009年4月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会

神よりも人を恐れるなら,救い主によく仕えることはできません。主は,回復された教会の一部の指導者を,世の誉れを求め,主にかかわる事柄よりも世の事柄のうえに心があったという理由で叱しっ責せきされました教義と聖約30:258:39参照)。そのような懲らしめは,わたしたちが召されているのは主の標準を確立するためであって,世の標準に従うためではないということを思い出させてくれます。ジョン・A・ウイッツォー長老はこう断言しています。「わたしたちは,ほかの人と同じように生き,ほかの人と同じように語り,ほかの人と同じように行動することはできません。なぜなら,わたしたちはほかの人とは異なる行く末,義務,責任を受けており,自らを〔それらに〕ふさわしい者としなければならないからです。」(ジョン・A・ウイッツォー,Conference Report,1940年4月,36)この現実は,慎みのない服装など,現代の流行を追うすべての行動についても当てはまります。賢い友人はこう言いました。「浜辺にいるほかの海水浴客と同じ外見をしていたら,救助隊員にはなれません。」(アーデス・グリーン・カップ,I Walk by Faith(1987年),97)

 

世の誉れを求めることで自分の命を救うことばかりを考えている人は,実際のところ,自分の命を永遠に救うには互いに愛し合い,自分を捨てて人に奉仕する以外に方法はないという,救い主の教えを拒んでいることになります。

 

C・S・ルイスは救い主のこの教えを次のように説明しています。「利己心が現れる瞬間,そこには自分を最優先し,自分を中心に置き,事実上神になりたいと願いかねない自分がいる。これはサタンの犯した罪であり,その罪をサタンは人類に教えたのである。人間の堕落は性的行為と関係があったと考える人がいるが,それは間違いである。……サタンがわたしたちの遠い祖先の頭に植え付けたのは,自分が『神々のようになり』,自分で自分を創造したかのように振る舞い,自分が自分の主人になり,神から離れ,神なしに自分で幸福を作り出すことができるという考えだった。……そして,かなう見込みのないこの挑戦から生まれたのが,神以外に,自分を幸福にしてくれるものを見つけようとする,人間の長く恐ろしい物語だった。」(C・S・ルイス,Mere Christianity(1980年),49,強調付加)

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)

 

2025年4月総大会

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

 

教義と聖約30:1-2

見よ、わたしはあなた、デビッドに言う。あなたは人を恐れ、当然なすべきであるのにわたしに頼って強さを得ようとしなかった。

それどころか、あなたの心は、あなたの造り主であるわたしにかかわる事柄や、あなたが召された務めよりも、世の事柄のうえにあった。そして、あなたはわたしの御霊やあなたの上に置かれた人々を心に留めず、わたしから命じられていない者たちに説きつけられてきた。

 

「高ぶりを心せよ」(英文)1989年4月、工ズラ・クフト・ベンソン大管長

サウルがダビデの敵になったのも、高慢のゆえでした。イスラエルの女たちが次のように歌うのを聞いて、サウルは嫉妬したのです。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した。」サムエル上18:6–8参照)

 

高慢な人は、神の裁きよりも人にどう思われるかを恐れます。教義と聖約3:6–730:1–260:2参照)彼らにとっては、「神にどう思われるか」よりも、「人にどう思われるか」のほうが重要なのです。

 

ノア王は預言者アビナダイを放免しようとしましたが、邪悪な祭司たちに高慢な心をかき立てられて、アビナダイを火刑場に送りました。モーサヤ17:11–12参照)ヘロデも、バプテスマのヨハネの首を切るように妻から求められたときに当惑しましたが、結局は「列座の人たちの手前」よく見られたいという高慢な思いから、ヨハネを殺してしまいました。(マタイ14:9マルコ6:26参照)

 

人にどう思われるかを恐れる人は、人の賞賛を求めて争うようになります。高慢な人は「神のほまれよりも、人のほまれを好」むのです。ヨハネ12:42–43どのような動機で行動するかによって、罪かどうかが決まってきます。イエスは「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」ヨハネ8:29と言われました。私たちは、人にまさることや勝つことではなく、神のみこころにかなうことをしたいという動機で行動すべきではないでしょうか。

 

 

 

 

聖句とそれを引用した預言者たちの言葉2025年版(BOX)