見よ、わたしはあなた、デビッドに言う。あなたは人を恐れ、当然なすべきであるのにわたしに頼って強さを得ようとしなかった。
それどころか、あなたの心は、あなたの造り主であるわたしにかかわる事柄や、あなたが召された務めよりも、世の事柄のうえにあった。そして、あなたはわたしの御霊やあなたの上に置かれた人々を心に留めず、わたしから命じられていない者たちに説きつけられてきた。
「高ぶりを心せよ」(英文)1989年4月、工ズラ・クフト・ベンソン大管長
サウルがダビデの敵になったのも、高慢のゆえでした。イスラエルの女たちが次のように歌うのを聞いて、サウルは嫉妬したのです。「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した。」(サムエル上18:6–8参照)
高慢な人は、神の裁きよりも人にどう思われるかを恐れます。(教義と聖約3:6–7;30:1–2;60:2参照)彼らにとっては、「神にどう思われるか」よりも、「人にどう思われるか」のほうが重要なのです。
ノア王は預言者アビナダイを放免しようとしましたが、邪悪な祭司たちに高慢な心をかき立てられて、アビナダイを火刑場に送りました。(モーサヤ17:11–12参照)ヘロデも、バプテスマのヨハネの首を切るように妻から求められたときに当惑しましたが、結局は「列座の人たちの手前」よく見られたいという高慢な思いから、ヨハネを殺してしまいました。(マタイ14:9;マルコ6:26参照)
人にどう思われるかを恐れる人は、人の賞賛を求めて争うようになります。高慢な人は「神のほまれよりも、人のほまれを好」むのです。(ヨハネ12:42–43)どのような動機で行動するかによって、罪かどうかが決まってきます。イエスは「わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしている」(ヨハネ8:29)と言われました。私たちは、人にまさることや勝つことではなく、神のみこころにかなうことをしたいという動機で行動すべきではないでしょうか。
