また、彼のあらゆる苦難を自分の苦難とし、彼とあなたが救い出されるように、祈りと信仰をもっていつもわたしに向かって心を高くしなさい。わたしは彼に、レーマン人の中にわたしの教会を築き上げる力を与えたからである。
「贖い―すべてを受けるためにすべてをささげる」2004年4月、ブルース・C・ヘーフェン、七十人
ドナのように自らを完全に奉献し,そのためたとえほとんどであっても十分な人々がいます。
例えば,ヨーロッパや同じような場所で多くの人に拒まれながらも,傷ついた心をささげ続ける多くの宣教師たち。
極限状態に追い込まれて神を知った手車隊の開拓者たちもそうです。彼らにとって,主を知るために支払った代価は,特権でした。
最善を尽くしながらも,娘の選択を変えることのできなかった父親。彼はアルマが息子にしたように,必死で主に近づき,懇願しました。
夫の弱さにもくじけず長年励まし続け,ついに夫の心に悔い改めの兆しを見ることのできた妻。彼女は「キリストが自分を見てくださっているように,夫を見ようとしました」と言いました。
長年心身の障害に苦しむ妻に寄り添い,それを「彼女の病気」ではなく「二人の小さな試練」と呼んでいる夫。彼は結婚の領域において,妻の苦難を自分の苦難としたので。(教義と聖約30:6参照) それはちょうどキリストが無限の領域で人々の「苦難を自分の苦難と」(教義と聖約133:53参照) されたのと同じでした。
第三ニーファイ第17章で,破壊,疑い,暗闇を耐え抜いた人々は,イエスとともに神殿に集まりました。大いなる驚きの中,何時間も主に耳を傾けた民は疲れ果て,主の言葉を理解できなくなりました。イエスが去ろうとされたとき,民は涙を流して主を見詰め,とどまって悩める者や子供たちを祝福してくださるようにと懇願しました。御言葉は理解できなくても,何よりも主とともにいたいと望んだのです。主はとどまられました。彼らのほとんどは十分だったのです。
ブログ主注釈:「ほとんどであっても十分」という表現は、ある限界や不足があったとしても、それが贖いによって補完されることを、私たちの努力や献身が完全ではなくても、最善を尽くすなら、救い主の犠牲や恩恵によって十分な結果がもたらされることを示唆しています。
