「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -431ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ2:7

初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

 

「人生の旅路に喜びを見いだす」2008年10月、トーマス・S・モンソン、大管長
人生に変化が訪れることは避けられませんが,感謝の心を持ち,最も大切な事柄で一日一日をできる限り満たせますように。大切な人たちを大切にし,愛を言葉と行いで表せますように。

最後に,わたしたち皆が,主なる救い主イエス・キリストに感謝を表せるよう祈ります。主の栄えある福音は「人はどこから来て,なぜここにいて,死ぬとわたしの霊はどこに行くのか」という人生の難題に答えてくれます。

主は祈り方を教え,仕え方を教え,生き方を教えてくださいました。主の生涯は愛の遺産です。病人を癒いやし,虐げられた人を引き上げ,罪人を救われました。

お独りになられる時が来ました。一部の弟子は主を疑いました。裏切る者もいました。ローマの兵士にわきを刺され,怒り狂った群衆に命を奪われても,ゴルゴタの丘には憐あわれみの言葉がこだましました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

それより前に,主は,恐らく地上での使命の極致を思い浮かべながら,こう嘆かれました。「きつねには穴があり,空の鳥には巣がある。しかし,人の子にはまくらする所がない。」マタイ8:20「客間には……余地がなかった」ルカ2:7参照)という言葉だけが主に向けられた唯一の拒絶の言葉ではなく,それは始まりにすぎませんでした。それでも主は皆さんとわたしに主を受け入れるよう招いておられます。「見よ,わたしは戸の外に立って,たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら,わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわたしと食を共にするであろう。」黙示3:20

悲哀を知っているこの悲しみの人,この栄光の王,この万軍の主はどなただったのでしょう。この御方こそ,わたしたちの主,救い主,神の御子,救いの源であられます。この御方は「わたしに従ってきなさい」マルコ2:14と招き,「あなたも行って同じようにしなさい」ルカ10:37と教え,「わたしの戒めを守り……なさい」教義と聖約11:6と嘆願しておられます。

主について行き,主の模範に倣い,主の御言葉に従いましょう。そうしながら,感謝という神聖な贈り物を主にささげましょう。

兄弟姉妹の皆さん,人生の変化を受け入れ,何が最も大切かを悟り, 常に感謝を表し,そのようにして旅路に喜びを見いだせますように,心から祈ります。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ1:21

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。

 

 

「橋を架ける者」2003年10月、トーマス・S・モンソン、大管長会

なぜなら主であり救い主であるイエス・キリストこそ,皆さんやわたし,全人類のための,最も偉大な橋の設計者であり建造者であられたからです。主は橋を架けてくださっており,もしわたしたちが天の家まで帰るつもりであるならば,その橋を渡らなければなりません。

救い主の使命は預言されていました。マタイはこう記録しています。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」マタイ1:21

続いて主の誕生という奇跡が起き,その馬屋へ,その母親のもとへ,その幼子のもとへと,羊飼いたちが急いでやって来ました。さらにはあの星を追って,東から旅をして来た博士たちが,幼子に高価な贈り物をささげました。

聖文には,イエスは「ますます成長して強くなり,知恵に満ち,そして神の恵みがその上にあった」ルカ2:40、 また主は「よい働きをしながら……巡回」(使徒行伝10:38)されたと記録されています。

主はこの死すべき世でどのような独自の橋を架けて渡り,従うべき道を示されたでしょうか。主は死すべき世が危険と困難に満ちた場所となることを御存じでした。主は次のように宣言しておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

イエスは従頓の橋を用意されました。主は御父の命令を守り,個人の従順について変わることのない模範となられました。

わたしたちが渡るように主が用意してくださった第二の橋は,奉仕の橋です。わたしたちは奉仕の模範として救い主に心を向けます。神の御子として地上に来られたにもかかわらず,主は謙遜に周囲の人々にお仕えになりました。

最後に,主は祈りの橋を用意してくださいました。次のように指示しておられます。「常に祈りなさい。そうすれば,わたしはあなたに御霊を注こう。そして,あなたの祝福は大いなるものとなる。」教義と聖約19:38

ゲツセマネの園でイエスがささげられた祈りほど,祈りに関する話でわたしの心を深く動かすものはありません。最も見事に描写しているのはルカだと思います。

「イエスは……オリブ山に行かれ……,弟子たちも従って行った。

いつもの場所に着いてから,彼らに言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』

そしてご自分は,石を投げてとどくほど離れたところへ退き,ひざまずいて,祈って言われた,

『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』

そのとき,御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて,ますます切に祈られた。そして,その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ22:39-44)

やがて十字架への旅が始まりました。御自身の十字架を運びながらつらい道のりを進んだとき,主はどのような苦しみを堪え忍ばれたのでしょう。十字架の上で主がこう言われるのが聞こえました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

最後にイエスは次のように宣言されました。「『すべてが終った。』〔そして〕首をたれて息をひきとられ」たのです。(ヨハネ19:30)

これらの出来事と,主の栄えある復活とによって,従順の橋,奉仕の橋,祈りの橋という3部作の最後の橋が完成しました。

橋を架ける者であるイエスは,わたしたちが死と呼ぶ大きな谷に橋を架けてくださいました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(1コリント15:22) 主はわたしたちが自分自身ではできないことを,わたしたちのために行ってくださいました。こうして人類は主が架けてくださった橋を渡って,永遠の命へと至ることができるのです。

 

 

 

今週の「わたしに従って来なさい」

 

 

ルカ1:80

幼な子は成長し、その霊も強くなり、そしてイスラエルに現れる日まで、荒野にいた。

 

 

「倣うべき模範」2002年10月、卜一マス・S・モンソン、大管長会

エリサベツの産んだ子はバプテスマのヨハネとして知られるようになります。マリヤの子イエスも,このヨハネも,青少年のころの記録はほとんどありません。たった一つの文が,誕生してから人前で務めを始めるまでのヨハネの人生のすべてを物語っています。「幼な子は成長し,その霊も強くなり,そしてイスラエルに現れる日まで,荒野にいた。」ルカ1:80

ヨハネのメッセージは簡潔でした。信仰,悔い改め,水に沈めるバプテスマ,そして自身の権能よりも偉大な権能によって聖霊が授けられることを説いたのです。ヨハネは自分の忠実な弟子たちにこのように語りました。「わたしはキリストではなく,そのかたよりも先につかわされた者である。」ヨハネ3:28「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが,わたしよりも力のあるかたが,おいでになる。……このかたは,聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」ルカ3:16

それからバプテスマのヨハネによってキリストにバプテスマが施されます。後にイエスはこう証されました。「女の産んだ者の中で,バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。」マタイ11:11

今日の世を生きるわたしたちは皆,判断基準を必要としています。倣うべき模範が要るのです。バプテスマのヨハネは真の謙遜さという完全な模範をわたしたちに示しています。ヨハネは常に自分の後に来られる御方人類の救い主に服従したのです。

神を信頼し,その教えに従った人々について学ぶとき,細い声が心にこう語りかけてきます。「静まって,わたしこそ神であることを知れ。」詩篇46:10これらの人々は確固として神の戒めを守り,神を信頼し,祝福を受けたのです。その模範に倣うなら,わたしたちも今日のこの時代にあって同様の祝福を受けることでしょう。一人一人が倣うべき模範になるのです。