マタイ1:21 | 「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ1:21

彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。

 

 

「橋を架ける者」2003年10月、トーマス・S・モンソン、大管長会

なぜなら主であり救い主であるイエス・キリストこそ,皆さんやわたし,全人類のための,最も偉大な橋の設計者であり建造者であられたからです。主は橋を架けてくださっており,もしわたしたちが天の家まで帰るつもりであるならば,その橋を渡らなければなりません。

救い主の使命は預言されていました。マタイはこう記録しています。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は,おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」マタイ1:21

続いて主の誕生という奇跡が起き,その馬屋へ,その母親のもとへ,その幼子のもとへと,羊飼いたちが急いでやって来ました。さらにはあの星を追って,東から旅をして来た博士たちが,幼子に高価な贈り物をささげました。

聖文には,イエスは「ますます成長して強くなり,知恵に満ち,そして神の恵みがその上にあった」ルカ2:40、 また主は「よい働きをしながら……巡回」(使徒行伝10:38)されたと記録されています。

主はこの死すべき世でどのような独自の橋を架けて渡り,従うべき道を示されたでしょうか。主は死すべき世が危険と困難に満ちた場所となることを御存じでした。主は次のように宣言しておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

イエスは従頓の橋を用意されました。主は御父の命令を守り,個人の従順について変わることのない模範となられました。

わたしたちが渡るように主が用意してくださった第二の橋は,奉仕の橋です。わたしたちは奉仕の模範として救い主に心を向けます。神の御子として地上に来られたにもかかわらず,主は謙遜に周囲の人々にお仕えになりました。

最後に,主は祈りの橋を用意してくださいました。次のように指示しておられます。「常に祈りなさい。そうすれば,わたしはあなたに御霊を注こう。そして,あなたの祝福は大いなるものとなる。」教義と聖約19:38

ゲツセマネの園でイエスがささげられた祈りほど,祈りに関する話でわたしの心を深く動かすものはありません。最も見事に描写しているのはルカだと思います。

「イエスは……オリブ山に行かれ……,弟子たちも従って行った。

いつもの場所に着いてから,彼らに言われた,『誘惑に陥らないように祈りなさい。』

そしてご自分は,石を投げてとどくほど離れたところへ退き,ひざまずいて,祈って言われた,

『父よ,みこころならば,どうぞ,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころが成るようにしてください。』

そのとき,御使が天からあらわれてイエスを力づけた。

イエスは苦しみもだえて,ますます切に祈られた。そして,その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ22:39-44)

やがて十字架への旅が始まりました。御自身の十字架を運びながらつらい道のりを進んだとき,主はどのような苦しみを堪え忍ばれたのでしょう。十字架の上で主がこう言われるのが聞こえました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」(ルカ23:34)

最後にイエスは次のように宣言されました。「『すべてが終った。』〔そして〕首をたれて息をひきとられ」たのです。(ヨハネ19:30)

これらの出来事と,主の栄えある復活とによって,従順の橋,奉仕の橋,祈りの橋という3部作の最後の橋が完成しました。

橋を架ける者であるイエスは,わたしたちが死と呼ぶ大きな谷に橋を架けてくださいました。「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのである。」(1コリント15:22) 主はわたしたちが自分自身ではできないことを,わたしたちのために行ってくださいました。こうして人類は主が架けてくださった橋を渡って,永遠の命へと至ることができるのです。