「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -417ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:3
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。


「壊れたものを元どおりに」(英文)2006年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
大いなる山上の垂訓でイエスが最初に語られた言葉は,悩んでいる人や落胆している人,意気消沈している人に向けたものでした。「こころの貧しい人たちは,さいわいである,天国は彼らのものである」とおっしゃったのです。(マタイ5:3)  わたしは,個人的な試練に直面している人や,家庭内の問題で苦しんでいる人たちに向かって話します。末日聖徒イエス・キリスト教会の会員か,それとも今朝わたしの話を聞いてくださっている,会員でない大勢の人たちの一人であるかにかかわらず話します。心の内の葛藤に独りで耐えている人,洪水のように押し寄せて来る絶望の波を,時には押し流されそうになりながら,必死でせき止めようと努めている人に向かって話します。特に,自分の人生が崩壊してしまって,もはや取り返しがつかないと感じている人たちに向けて話したいと思います。

そのような人すべてに,わたしの知っている,慰めに満ちた確かな解決策を教えましょう。それは,世の救い主御自身が与えてくださった明確な教えの中にあります。これについて救い主は,教え導く業を始めたときに語っておられますし,業を終えるときにも話しておられます。信者に対しても,確かな信仰を持っていない人に対しても言われました。個人的な問題がどのようなものであれ,すべての人に向けて,次のように言われたのです。

「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:28–29)

この約束の最初の部分にある,「わたしのもとにきなさい」という言葉は非常に大切です。この言葉は,わたしたちが求めている平安と休息を得るための鍵です。しかも,復活された後に救い主は,アメリカ大陸の神殿でニーファイ人たちに向かって,このような言葉で説教を始められました。

「わたしのもとに来る心の貧しい人々は,さいわいである。天の王国は彼らのものだからである。」(3ニーファイ12:3)

アンデレとヨハネは,初めてキリストの話を聞いたときに大きく心を動かされ,群集から離れて歩いて行かれるイエスの後を付いて行きました。だれかが付いて来るのを感じ取られたイエスは振り向き,二人に向かって,「何か願いがあるのか」とお尋ねになりました。二人は,「どこにおとまりなのですか」と尋ねました。するとキリストはこうお答えになりました。「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう。」翌日イエスは,もう一人の弟子となるピリポに出会い,彼にも,「わたしに従ってきなさい」という簡単な言葉をおかけになりました。(ヨハネ1:35–39,43) 程なくイエスは,ペテロをはじめほかの新たな使徒たちを召されましたが,そのときも同じように「わたしについてきなさい」とお招きになりました。(マタイ 4:19)


わたしたちの務めに欠かすことのできないもの,この世での生活の根本にある義務が,この短い言葉に集約されていることは明らかです。地上での務めを果たしておられたとき,救い主は様々な場面でこの言葉をおっしゃいました。主はわたしたちにこう言っておられるのです。「わたしを信頼して,わたしから学び,わたしが行うように行いなさい。そうすれば,わたしが行こうとしている場所に向かって歩きながら,あなたが行こうとしている場所や,あなたが直面している問題,抱えている悩みについて,ともに話すことができます。わたしに従って来るなら,あなたを暗闇から連れ出しましょう。」そしてこう約束しておられます。「祈りに答えを与えましょう。また,あなたの魂に休みを与えましょう。」

愛する友人の皆さん,思いがけない困難や問題が山積した人生の中で,道を誤らずに安全に生きる方法は,これ以外にありません。重荷を負うことのできる方法や,モルモン書の中でヤコブが述べている「聖徒たちのために用意されているあの幸福」を見いだす方法は,これ以外にありません。(2ニーファイ9:43)

では,どうすればこの変わることのない招きに従って「キリストのもとに来」ることができるのでしょうか。聖文の中には数多くの実例や方法が挙げられています。皆さんはその中の最も基本的なものをよく知っているでしょう。最も簡単で第1に行う必要があるのは,心から願うことです。これは,わたしたちが知る最も基本的な信仰の形です。アルマは,「たとえ信じようとする望みを持つだけでもよい」と言っています。「ごくわずかな信仰でも働かせようと」努め,神の約束「の一部分でも受け入れることができる」ようになれば,第一歩としては十分です。(アルマ 32:27) 「ごくわずかな」信仰であろうと,ただ信じ続けてください。まだ見てはいないけれども人生で確かに与えられるはずのものを待ち望むのです。(アルマ 32:21) この簡単なステップを,主イエス・キリストを中心に据えて行うことこそが,主の永遠の福音の第一原則なのです。この原則は過去も将来も変わることがありません。これこそが,絶望の淵から這い上がる第一歩なのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ4:13-14
イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。


「永遠の航海」2000年4月、トーマス・S・モンソン、大管長会
2000年前、ナザレのイエスはサマリヤの井戸のそばに座り、ある女性にこう話されました。

「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。

しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ4:13-14)

もし浮き沈みする人生を自分の弱さのために変えられないと思っている人がいるなら、あるいは、失敗を恐れるあまり改善する決心がつかない人がいるなら、主の次の言葉ほど、確かな慰めをもたらすものはないでしょう。「わたしの前にへりくだるすべての者に対して、わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり、わたしを信じるならば、そのとき、わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」(エテル12:27)

謙遜な祈り、勤勉な備え、そして忠実な奉仕を通し、わたしたちは自らの神聖な召しを果たすことができます。

海洋を航行する船長が、船体にふじつぼが付着して重くなると、進行を妨げるその障害物を取り除こうとして、航路を淡水のコロンビア川やウィラメット川に定めたことを覚えているでしょうか。わたしたちも、生活の中で、また主の業に仕えるうえで、イエス・キリストの福音という生ける水に航路を定めることにより、疑い、怠惰、恐れ、罪というふじつぼを振り払おうではありませんか。すなわち、信仰、祈り、慈愛、従順、愛などの教えを実践するのです。主イエス・キリストという灯台は、生ける水に至る道を示してくれます。主の明かりは、わたしたちの航路を日の栄えへと導いてくれるのです。

わたしたちがこのような航海を行ううえで賢明な船員となれますように。主の御前にあって清い器となりましょう。夫に先立たれた人、子どもの叫び、職を失った人のつらい立場、病にある人が抱える重荷、寝たきりの人、年老いた人、貧しい人、飢えた人、足の不自由な人、忘れ去られている人、そのような人々に気づき、彼らの必要を満たそうではありませんか。天の御父、その愛されている御子、イエス・キリストは彼らを覚えておられます。わたしたちがこの方々の神聖な模範に従えますように。そうすれば、わたしたちは天与の平安という祝福を受けることでしょう。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ4:4
しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。


「イエス・キリストの御名を受ける」2018年10月、ロバート・C・ゲイ、七十人会長会
わたしの好きな聖句の一つは,ヨハネによる福音書第4章4節です。「しかし,イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。」

なぜこの聖句が好きなのかというと,イエスにはサマリヤに行く必要がなかったからです。その時代,ユダヤ人はサマリヤ人をさげすんでいて,サマリヤを迂回する道を通って旅をしていました。しかし,イエスは御自分が約束されたメシヤであることを全世界に向けて初めて宣言するために,あえてそこに行かれたのです。それを伝える相手として,のけ者にされていた民を選んだだけでなく,女性を選ばれました。しかも,罪深い生活をしていた女性,すなわち,当時最も見下げられていた人を選ばれたのです。イエスがそうされたのは,恐れや心の傷,依存症,疑念,誘惑,罪,崩壊した家庭,うつや不安,慢性の病気,貧困,虐待,絶望,孤独などよりも主の愛の方が大いに勝ることを,すべての人が常に理解できるようにするためだったと,わたしは確信しています。(ルカ4:21ヨハネ4:6-26参照) 御自分の力で癒して,永続する喜びへと導くことのできないものや人はないことを,すべての人に知らせたいと,イエスは望まれたのです。(Neal A. Maxwell "Meeting the Challenges of Today" )

主の恵みは十分なのです。(ラッセル・M・ネルソン「預言者,指導力,神の律法」) 主のみが,すべてのものの下に身を落とされました。主の贖いの力は,人生のどんな重荷をも克服する力です。(イザヤ53:3-5アルマ7:11-13教義と聖約122:5-9参照) 井戸の傍らにいた女に与えられたメッセージは,主はわたしたちの生活状況を御存じで,(ジョセフ・スミス—歴史1:17,イレイン・S・ダルトン「主は皆さんの名前を御存じです」 ) わたしたちはどのような状況にあろうといつでも主とともに歩むことができるということです。この女とすべての人に向けて主は述べておられます。「わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)