「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -416ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:8
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。


「心を開く」2008年4月、ジェラルド・N・ランド、七十人
兄弟姉妹の皆さん,これこそわたしたち皆が求めるものではないでしょうか。聖霊の訪れを受け,主を身近に感じ,生活に喜びと慰めを見いだすことです。もしそうなら,自分の心の状態を見極めることは,この人生で行える最も重要な事柄の一つです。



心に入る門という考え方を個人の啓示を受けることに当てはめてみましょう。ニーファイはこのように教えています。「人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心 に伝える……。」(2ニーファイ33:1) デビッド・A・ベドナー長老は,「心に」という言葉の使い方に注目しています。「注目するべきは,御霊の力は教えを心に伝える のですが,それが常に心に入るとは限らないということです。……結局は〔聞く人〕の側で心に取り込もうとしなければ,教えの内容も,聖霊による証も彼らの心にしみ込みません。」(「信仰によって学ぶ望みを持つ」『リアホナ』(英文)2007年9月号)

なぜ「心に」なのでしょうか。個人の選択の自由は非常に神聖なものであるため,天の御父は無限の力を持っておられるにもかかわらず,人の心に強制することは決してなさらないのです。人はそうしようとすることがありますが,神はなさいません。言い換えると,神はわたしたちが自分の心の守り手,あるいは門番になることを許しておられるのです。わたしたちは自分自身の自由意思により,御霊に心を開かなくてはなりません。なぜなら,聖霊はわたしたちに強制はなさらないからです。

では,どうすれば心を開くことができるのでしょうか。

山上の垂訓の中で,救い主はこのように言われました。「心の清い人たちは,さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8) 清いものは,そこに本来属さないものによって汚されることはありません。心が清いことは確かに,神から霊感を受けるための最も重要な資格の一つです。完全な心を持っている人はだれもいませんが,汚れを捨て,本来あるべきではないものを取り除くよう一生懸命に努めれば努めるほど,聖霊に心を開くことができます。預言者ヤコブの次のすばらしい約束に注目してください。「心の清いすべての人よ,頭を上げて,喜びをもたらす神の御言葉を受け入れ,神の愛をよく味わいなさい。」(モルモン書ヤコブ3:2)

 

 

 

 


 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。


「あわれみ深い人たちはさいわいである」(英文)1990年4月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長会
もっと憐れみ深い者となろうではありませんか。私たちの生活からおごりやうぬぼれ,利己心を一掃しようではありませんか。今まで以上に思いやりとやさしさとを示し,忍耐心を持ち,互いに一層尊敬し合おうではありませんか。そうするならば,私たちの模範によってほかの人々も憐れみの気持ちを深めてくれるでしょう。また私たちも,愛の心で惜しむことなく私たちに与えてくださる神に,一層の憐れみを願い求めることができるのです。

「見よ、わたしたちは皆、物乞いではないだろうか。わたしたちは皆、持っているすべてのものについて、すなわち食物も衣服も、金も銀も、そのほか持っているあらゆる富について、同一の御方、すなわち神に依存してはいないだろうか。

さて、もしもあなたがたを造られた神、あなたがたが自分の命についても自分の持ち物と能力のすべてについても頼っている神が、あなたがたが必ず与えられると信じて、信仰をもって求める正当なものを、何でもすべて与えてくださるとすれば、ましてあなたがたは、自分たちの持っているものを互いに分かち合って当然ではないだろうか。」(モーサヤ 4:19,21)

こう説教したのはベンジャミン王でした。私はこれに付け加えて,主のカは確かであり,またそのみ言葉も確かであると申しあげます。思いやりに満ちた人々に与えられた主の約束は,主が必ず守ってくださいます。「あわれみ深い人たちは,さいわいである,彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5: 7)

 

 

 

少年時代の教訓(動画)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。


「霊の命…を心にかけなさい」2003年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
人はだれも,混乱し変転極まりない世界情勢にまったく無関係ではいられません。そのような状況にあって直面するのは,現実的でやむことのない苦悩です。すなわち,この世の苦労を体験する中で,主の言われる「霊の命……を心にかけ〔る〕」ことを実際に選ぶかどうかという苦悩です(教義と聖約101:37)。外部の出来事とのかかわりがどれほどのものにせよ,この内なる苦悩は平穏な時代にも動乱の時代にも存在します。



ですから,この騒乱の時代にあっても,ひそやかに「霊の命」を心にかけることがやはり最も重要なのです。将来を左右する決定的瞬間になり,時に義にかなった行いを際立たせることがありますが,いかなる外的混乱も,内的決心を揺るがす言い訳にはなりません。



「霊の命」について深く考えるとき,自分自身の完全な改心を目指して努力することが助けになりますが,その訳は福音の種はまず「良い地」,すなわちイエスの定義された「正しい良い心」を持った人々に落ちるからです(ルカ8:15)。その結果,そのような人は「喜んで」「御言を聞いて悟〔り〕」,「実を結び」,「堪え忍び」ます。そして最後には,「義のために飢え乾く」とはどのようなことかを学ぶのですマタイ13:20,23ジョセフ・スミス訳マタイ13:21〔英文〕マタイ5:6。これが「大きな変化」なのですモーサヤ5:2。改心とは基本的に「生まれながらの人」から「キリストの人」になる変化を指すものですモーサヤ3:19ヒラマン3:292コリント5:17も参照)。この変化は一朝一夕に起こるものではありません。

改心という継続的な過程によって生まれる結果の一つは,「悪を行う性癖をもう二度と持つことなく,絶えず善を行う望みを持つ」ようになることです(モーサヤ5:2)。ですから当然なことに,この過程を経てこのように改心した人たちは「兄弟たちを力づけて」あげられるようになり(ルカ22:32),「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をして」いることによって人を引き上げることができるようになります(1ペテロ3:15)