マタイ5:8
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
「心を開く」2008年4月、ジェラルド・N・ランド、七十人
兄弟姉妹の皆さん,これこそわたしたち皆が求めるものではないでしょうか。聖霊の訪れを受け,主を身近に感じ,生活に喜びと慰めを見いだすことです。もしそうなら,自分の心の状態を見極めることは,この人生で行える最も重要な事柄の一つです。
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心に入る門という考え方を個人の啓示を受けることに当てはめてみましょう。ニーファイはこのように教えています。「人が聖霊の力によって語るときには,聖霊の力がそれを人の子らの心 に伝える……。」(2ニーファイ33:1) デビッド・A・ベドナー長老は,「心に」という言葉の使い方に注目しています。「注目するべきは,御霊の力は教えを心に伝える のですが,それが常に心に入るとは限らないということです。……結局は〔聞く人〕の側で心に取り込もうとしなければ,教えの内容も,聖霊による証も彼らの心にしみ込みません。」(「信仰によって学ぶ望みを持つ」『リアホナ』(英文)2007年9月号)
なぜ「心に」なのでしょうか。個人の選択の自由は非常に神聖なものであるため,天の御父は無限の力を持っておられるにもかかわらず,人の心に強制することは決してなさらないのです。人はそうしようとすることがありますが,神はなさいません。言い換えると,神はわたしたちが自分の心の守り手,あるいは門番になることを許しておられるのです。わたしたちは自分自身の自由意思により,御霊に心を開かなくてはなりません。なぜなら,聖霊はわたしたちに強制はなさらないからです。
では,どうすれば心を開くことができるのでしょうか。
山上の垂訓の中で,救い主はこのように言われました。「心の清い人たちは,さいわいである。彼らは神を見るであろう。」(マタイ5:8) 清いものは,そこに本来属さないものによって汚されることはありません。心が清いことは確かに,神から霊感を受けるための最も重要な資格の一つです。完全な心を持っている人はだれもいませんが,汚れを捨て,本来あるべきではないものを取り除くよう一生懸命に努めれば努めるほど,聖霊に心を開くことができます。預言者ヤコブの次のすばらしい約束に注目してください。「心の清いすべての人よ,頭を上げて,喜びをもたらす神の御言葉を受け入れ,神の愛をよく味わいなさい。」(モルモン書ヤコブ3:2)


