「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -415ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:14
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。


「キリストはわたしをどう思われるか」2012年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
イエスはパリサイ人にこう尋ねられました。「あなたがたはキリストをどう思うか。」(マタイ22:42) 最後の裁きのときに,わたしたち個人が主の弟子になっているかどうかを裁くのは,友人でもなければ敵でもありません。むしろパウロが言っているように,「わたしたちはみな,神のさばきの座の前に立つので〔す〕。」(ローマ14:10) その日,わたしたち一人一人にとって次のような質問が重みを帯びてきます。「キリストはわたしをどう思われるか。」

イエスは全人類を愛しておられました。しかし,イエスを取り巻く人々の中には,偽善者(マタイ6:2),愚かな人(マタイ23:17),不法を働く者(マタイ7:23)と称され,主にとがめられた人々もいました。御国の子(マタイ13:38),世の光(マタイ5:14)と呼ばれ,主に良しとされた人々もいました。目をくらまされた人(マタイ15:14),実を結ばなくなる人(マタイ13:22)と称され,主に非難された人々もいました。心の清い人(マタイ5:8),義に飢えかわいている人(マタイ5:6)として主に褒められた人々もいました。不信仰な人(マタイ17:17),この世の者(ヨハネ8:23)として主の嘆きを買った人々もいましたが,選ばれた者(ヨハネ6:70),弟子(ヨハネ13:35),友(ヨハネ15:13)として主に尊ばれた人々もいました。そのようなわけで,わたしたちはそれぞれ次のように自問します。「キリストはわたしをどう思われるか。」

……

わたしはイエス・キリストが世の救い主であり,わたしたちの罪のために苦しみと死を経験し,3日目によみがえられたことを証します。主は復活されました。将来,いつの日か,すべてのひざがかがみ,すべての舌が,彼こそキリストであると告白することでしょう。(ローマ14:11参照) その日,わたしたちの関心は,「周囲の人々はわたしをクリスチャンだと考えているか」ということには向けられないでしょう。そのとき,わたしたちの目は主に釘付けとなり,わたしたちの心は次の質問に集中するでしょう。「キリストはわたしをどう思われるか。」主は生きておられます。このことをイエス・キリストの御名によって証します。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:13
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。


「霊の栄養」2006年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
霊的な健康を保つための霊の栄養は,必要な導きを神から受けられるようなふさわしい生活をしていないと効能が失われてしまいます。救い主はわたしたちにこう言われました。「あなたがたは,地の塩である。もし塩のききめがなくなったら,何によってその味が取りもどされようか。もはや,なんの役にも立たず,ただ外に捨てられて,人々にふみつけられるだけである。」(マタイ5:13) 

 

わたしたちは,精神と肉体をあらゆる種類の中毒や汚れから清く保たなければなりません。腐った食べ物や汚れた食べ物をわざわざ選んで食べる人はいません。同様に,品のないものは何であれ,それを選んで読んだり,見たりすることがないよう注意するべきです。霊の汚染は,インターネットやコンピューターゲーム,テレビ番組,映画を通してわたしたちの生活に入り込んで来ます。そうしたものの中には,人間のより低俗な側面があからさまに表現され,また露骨に描写されています。このような環境の中で生活しているのですから,わたしたちは霊的にもっと強くなる必要があります。

霊の飢えを感じたエノスは,一日中叫び求め,自分自身のために夜になってもまだ懇願したと語りました。(エノス1:4) 霊的な真理に対する渇きを癒す霊の栄養を渇望したのです。世の救い主は,サマリヤの井戸で女にこう語りました。「わたしが与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,わたしが与える水は,その人のうちで泉となり,永遠の命に至る水が,わきあがるであろう。」(ヨハネ4:14)

 

 

 

 


 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。


「イエスに従う―平和を作り出す人になる」2022年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
山上の垂訓はすべての人に向けたメッセージですが,特に救い主の弟子たち,すなわち主に従うことを選んだ人々に与えられたものです。

当時も今も,争いと不敬に満ちた世で生きる方法を主は教えておられます。「平和をつくり出す人たちは,さいわいである,彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9) と,主は宣言されました。

わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰を盾に,敵の放つすべての火の矢を鎮める―つまり抑え,冷まし,消す―ことによって平和を作り出す者となるのです。(エペソ 6:16教義と聖約 3:8参照)

自分の義務を果たすとき,わたしたちは「神の子」と呼ばれるであろうと,主は約束しておられます。地上の人はすべて神の「子孫」(使徒17:28)ですが,「神の子」という呼び名には,はるかに多くの意味があります。イエス・キリストのもとに来て主と聖約を交わすとき,わたしたちは「御子の子孫」(モーサヤ15:11),「王国を受け継ぐ者,「キリストの子」,「キリストの息子および娘」(モーサヤ5:7)となるのです。

平和を作り出す人は,どのようにして火の矢を抑え,冷ますのでしょうか。もちろん,わたしたちを見くびる人々の前で萎縮することではありません。むしろ,信仰に自信を持ち,怒りや悪意を決して抱かずに,信念を持って自分の信条を伝えるのです。(ダリン・H・オークス、「違いがあっても周りの人を愛し,受け入れる」2014年10月)

最近,教会を痛烈に批判する記事を目にした後,公民権運動の全国的指導者であり,サンフランシスコの第三バプテスト教会の牧師でもあるエイモス・C・ブラウン牧師は,次のように答えました。

「わたしはその記事を書いた人の経験と見解を尊重します。しかし,それに賛成はできません。」

「ラッセル・M・ネルソン会長を含むこれらの〔教会の〕指導者と知り会えたことは,わたしの人生で最も大きな喜びの一つです。わたしの見るところ,彼らはまさに,わが国の最高の指導者を絵に描いたような方たちです。」

そして,こう付け加えました。「わたしたちは過去の状況について不満を言うことができます。現在起こっているすべての良いことを認めず,拒むことができます。……しかし,そのような姿勢では,国の分裂を癒すことはできません。……イエスが教えられたように,わたしたちはさらなる悪をもって悪を根絶することはしません。わたしたちは,敵だと思っている人々に対しても,惜しみなく愛し,憐れみ深く生きるのです。」(“Amos C. Brown: Follow the LDS Church’s Example to Heal Divisions and Move Forward,” Salt Lake Tribune, Jan. 20, 2022, sltrib.com.)

ブラウン牧師は平和を作り出す人です。彼は穏やかに,敬意をもって火の矢を冷ましました。平和を作り出す人は受け身にならず,救い主の方法で説得します。(デール・G・レンランド、キリストの平安は敵意を取り除く、2021年10月)

わたしたちの愛する真理に向かって放たれる火の矢を冷まし,抑え,鎮める内なる力を与えてくれるのは何でしょうか。その力は,イエス・キリストと御言葉を信じる信仰によってもたらされます。

「わたしのために人々があなたがたをののしり,……あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には,あなたがたは,さいわいである。
……天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも,同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)