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「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:17

神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

 

 

「純粋な証」2000年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会

デビッド・0・マッケイ大管長が証を得た方法について、自ら語っている言葉に耳を傾けてみましょう。少年時代に彼はひざまずいて、「ジョセフ・スミスに与えられた啓示が真実であることを神に示していただこうと、幼い子どもが持つことのできる信仰を精いっぱい使って、熱心に、誠心誠意で祈りました。」

 

マッケイ大管長は、立ち上がったとき、「霊的な現れは何もありませんでした。正直言ってわたしは、祈る前と何も変わらない元のままの〔少年〕であることを認めざるを得ませんでした」と語りました。

 

そのとき幼いデビッドが心に何を感じていたかは知りません。しかし、きっと望んでいたような霊的な経験ができなかったことに落胆していたことでしょう。もしかしたら、失望していたかもしれません。だからといって、その知識を探し求めるのをやめたわけではありませんでした。

この祈りの答えは確かに与えられました。しかしそれは、何年も後の、宣教師として働いていたときのことでした。彼の祈りの答えはなぜ、それほど先に延ばされたのでしょうか。マッケイ大管長はこの霊的な現れが「義務を果たした自然の結果として与えられた」(Cherished Experiences from the Writings of President David O. McKayクレア・ミドルミス編、16)  ことを信じていました。

 

救い主は同じような原則を教えておられます。御自身のメッセージに疑問を投げかけられたとき、このように宣言されました。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」ヨハネ7:17

 

たとえ祈りの答えが直ちに与えられなくても失望しないでください。研究し、深く考え、信仰をもって誠心誠意祈り、戒めを生活で実行してください。

 

「あなたがたは、自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ、証は得られないからである」とモロナイは教えています。エテル12:6

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:16,28
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。…… イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。 


「父親らの手で」(英文)1999年4月、ジェフリー・ R・ ホランド、十二使徒定員会
主が教導の業を始めて間もないころ,主はへりくだってこのように言われました。「わたしは,自分からは何事もすることができない。……わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めている……。」(ヨ八ネ5:30)

聞く者をその力と権能で圧倒した教えに続いて,主は言われます。「わたしの教はわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。わたしは自分からきたのではない。……わたしをつかわされたかたは真実である……。」(ヨハネ7:16,28) そして後に再びこう言われます。「わたしは自分から語ったのではなく,わたしをつかわされた父ご自身が,わたしの言うべきこと,語るべきことをお命じになったのである。」(ヨハネ12:49)

御父にまみえたいと望み,イエスがその言われるとおりの御方であると直接御父からお聞きしたいと望む人に対して,主はこのようにお答えになりました。「もしあなたかたがわたしを知っていたならば,わたしの父をも知ったであろう。……わたしを見た者は,父を見たのである。」(ヨハネ14:7,9)  イエスが弟子たちの中に一致を保ちたいと望んだとき,主は御自身と神との関係を例に取って祈られました。「聖なる父よ,わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためであります。」(ヨハネ17:11)

主は十字架に向かうときでさえ,それを阻止しようとした弟子たちを静止して言われました。「父がわたしに下さった杯は,飲むべきではないか。」(ヨハネ18:11) 言葉に表現し難いほどの試練が終わると,主は最も平安にあふれ,現世での教導の業の報いに値する言葉を口にされました。苦痛の最後に,主はこう言われたのです。「『すべてが終った。』……父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます。」(ヨハネ19:30,ルカ23:46) そしてすべてが終わり,主は御父のもとに戻られたのです。

わたしは正直幾度もその瞬間について,そしてその後すぐに起こった復活について考えました。そして御父と御子との再会はどのようなものだったのかと思いました。あれほど御子を愛しておられた御父,そしてすべての言葉と行いで御父に栄光を帰して尊んだ御子。それまで一つであった御二方が再会されたとき,抱擁はどのようなものだったでしょう。神である同僚同士として,今どのように過ごされているのでしょうか。わたしたちはただ想像し,敬服するほかありません。わたしたちは復活祭の週末に,そのような関係を幾分か自分でも体現できるような生活をしたいと切に望んでいます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:15-17
すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。


「さまざまな他の声」(英文)1989年4月、ダリン•H ・オークス、十二使徒定員会
「『この人は学問をしたこともないのに,どうして律法の知識をもっているのだろう。』そこでイエスは彼らに答えて言われた,『わたしの教はわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,そわたし自身から出たものか,わかるであろう。』」ヨハネ7: 15-17)

モルモン書は,熱心に求める者には「神の奥義(が〕聖霊の力によって……開かれる」と教えています。(1ニーファイ 10:191コリント 2:4-16;アルマ18:35;教義と聖約121:26 参照) 予言者ヤコブは,人が霊感を受けずに神を知ることは不可能であると言明しました。「主の道が啓示されなかったならこれを知る者は一人もない。それであるから兄弟たちよ,神の下さる啓示を軽んじてはならない。」モルモン書ヤコブ4:8)

神聖な知識を得るために主が定められた方法は,研究によってのみ知識を得ようとする人々の方法とは異なっています。たとえば,学術研究の場でよく用いられる方法に,対立する論者を立てて意見を闘わせる討議方法があります。私自身このような討議をかなり経験しました。しかし主は,古代および現代の聖典の中で,教義のいずれの点についても論争してはならないと教えられました。(3ニーファイ 11:28-30 ;教義と聖約10:63参照) 福音の教師は「怒ることなく,争うことなく」説くように命じられており教義と聖約60:142テモテ 2:23-25参照),「温和にしてへりくだり」教義と聖約38:41), 「そしる者をそしり返す」教義と聖約19:30)  ことなく対応しなければならないのです。同様に,論争のために工夫された技術や,意見の相違を見つけて妥協させるやり方は,福音の知識を得るには効果的ではありません。福音の真理や証は,敬虔な気持ちで行なう個人の勉強と,静かな瞑想によって聖霊から与えられるものです。

主は,聖典の中で信仰によって学ぶ方法を示しておられます。私たちはまず,へりくだって信仰を養い,罪を悔い改め,同胞に仕え,神の戒めを守らなければなりません。エテル12:27;教義と聖約1 :28 ;12 :8 ;50 :28 ;63:23 ;136:32-33参照)モルモン経には次のように述べられています。「悔い改めて信仰をあらわし,善いことを行ってたえず祈る者は,神の奥義を悟る能力を授か……る。」アルマ26:22)

教会や福音を論理だけで理解しようとしたり,批判しようとする人々をときどき見かけることがあります。彼らは啓示を調べ,それを認めようとはしません。論理だけに頼るか,あるいは論理を主要な手段にして福音を理解しようとしても,結果は知れています。神が福音の真理を知るために定められた方法を無視して,神を見いだそうとしたり福音の教義や儀式を理解しようとしても徒労に終わるだけです。権威を持たず神からの啓示を否定した学者たちの解説や保護にゆだねられたときに,福音の真理が腐敗し,儀式が失われたのはこのためでした。