神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
「純粋な証」2000年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会
デビッド・0・マッケイ大管長が証を得た方法について、自ら語っている言葉に耳を傾けてみましょう。少年時代に彼はひざまずいて、「ジョセフ・スミスに与えられた啓示が真実であることを神に示していただこうと、幼い子どもが持つことのできる信仰を精いっぱい使って、熱心に、誠心誠意で祈りました。」
マッケイ大管長は、立ち上がったとき、「霊的な現れは何もありませんでした。正直言ってわたしは、祈る前と何も変わらない元のままの〔少年〕であることを認めざるを得ませんでした」と語りました。
そのとき幼いデビッドが心に何を感じていたかは知りません。しかし、きっと望んでいたような霊的な経験ができなかったことに落胆していたことでしょう。もしかしたら、失望していたかもしれません。だからといって、その知識を探し求めるのをやめたわけではありませんでした。
この祈りの答えは確かに与えられました。しかしそれは、何年も後の、宣教師として働いていたときのことでした。彼の祈りの答えはなぜ、それほど先に延ばされたのでしょうか。マッケイ大管長はこの霊的な現れが「義務を果たした自然の結果として与えられた」(Cherished Experiences from the Writings of President David O. McKayクレア・ミドルミス編、16) ことを信じていました。
救い主は同じような原則を教えておられます。御自身のメッセージに疑問を投げかけられたとき、このように宣言されました。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」(ヨハネ7:17)
たとえ祈りの答えが直ちに与えられなくても失望しないでください。研究し、深く考え、信仰をもって誠心誠意祈り、戒めを生活で実行してください。
「あなたがたは、自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ、証は得られないからである」とモロナイは教えています。(エテル12:6)


