「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -388ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:37
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。」


「霊の渇きを癒す生ける水」(英文)1995年4月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会
ヤコブの井戸の時と同様に, 今日でも主イエス・キリストは, 生ける水の唯一の源です。その水は, 全世界を襲う真理の干ばつに苦しむ人々の渇きを癒すでしょう。予言者エレミヤを通して古代イスラエルに与えられた主のみ言葉には, 現代の多くの神の子供たちの状態が描かれています。「わたしの民が… … 生ける水の源であるわたしを捨てて, 自分で水ためを掘った。それは, こわれた水ためで, 水を入れておくことのできないものだ。」(エレミヤ2:13) あまりに多くの天父の子供たちが, この世の壊れた水ためを掘るために貴重な人生を費やしています。それは永遠の真理への生まれながらの渇きを癒す生ける水を入れておけないものなのです。仮庵の祭りの最後の日に, エルサレムに戻られた救い主は, 時を超えた普遍的な呼びかけをされました。「だれでもかわく者は, わたしのところにきて飲むがよい。」(ヨハネ7:37)

ブルース・R・マッコンキー長老は,生ける水をこう定義しました。「永遠の生命の言葉, 救いのメッセージ, 神と王国に関する真理であり, 福音の教義である。」さらにこう説明しています。「神の予言者がいる所には, 生ける水の流れる川と永遠の真理をたたえた井戸と, 生命を与える水のわき出る泉があって, 霊の死から人を救う。」(「新約聖書教義注解」1:151-152)

ヤコブの井戸で救い主のみ言葉を聞いたサマリヤ人が語ったように, 私たちも信仰と確信をもってこう宣言できます。私たちは「自分自身で親しく聞いて, この人こそまことに世の救主であることがわかった… … 。」(ヨハネ4:42)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:24

うわべで人をさばかないで、正しいさばきをするがよい。

 

 

「救い主の不変の思いやり」2021年10月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会

人の態度や反応に影響を及ぼす状況すべてを理解するのは容易ではないということを,よく考える必要があります。見かけは当てにならず,多くの場合,人の振る舞いをそこから正確に測ることはできません。一方,キリストは,状況のあらゆる側面をはっきり理解することがおできになります。(『聖句ガイド』「全知」の項を参照) 救い主はわたしたちの弱さをすべて御存じでありながら,すぐに非難はなさらず,時間をかけて思いやりをもって働きかけ続け,わたしたちの目から梁を取り除く助けを与えてくださいます。イエスは,外見ではなく,常に心を見られます。(サムエル上16:7参照) 主は,「うわべで人をさばかない」(ヨハネ7:24) ようにとおっしゃっています。

 

さて,ニーファイ人の十二弟子に対する救い主の賢明な勧告について考えてみてください。

 

「あなたがたが知っているように,将来あなたがたは,わたしがあなたがたに与える公正な判断力によって,この民を裁く者となるであろう。したがって,あなたがたはどのような人物であるべきか。まことに,あなたがたに言う。 わたしのようでなければならない。」(3ニーファイ27:27)

 

「わたしや天におられるあなたがたの父が完全であるように,あなたがたも完全になることを,わたしは望んでいる。」(3 ニーファイ12:48)

 

つまり,欠点と思われるほかの人の弱さを,自分の判断で不当に裁く人々に,主は裁きを下されます。義にかなった裁きを行う資格を得るためには,救い主のようになり,思いやりをもって人の不完全さを見るように努めなければなりません。救い主の目で見るようにです。この先も完全に至る長い道のりがまだあることを考えると,ほかの人の不完全さに執着して多くの時間とエネルギーを費やすより,パリサイ人の家で悔い改めた女性のように,イエスの足もとに座して,自分自身の不完全さに対する憐れみを懇願する方がよいでしょう。

 

愛する友人の皆さんに証します。救い主の思いやりの模範を生活に取り入れようと努めるときに,隣人の徳をたたえる能力は増し,人の不完全さを裁く生まれながらの本能は低下します。わたしたちと神との交わりは深まります。間違いなく,人生はもっと思いやりに満ちたものとなり,柔和な気持ちが増し加えられ,終わりのない幸福の源を見いだすでしょう。わたしたちは平和をつくり出す人として知られるようになり,(『聖句ガイド』「平和をつくり出す人」の項を参照) 春の朝露のように穏やかな言葉で話します。

 

わたしたちが周りの人々に対してもっと寛容で,理解を示す人になれますように,また,完全な優しさの中で,主の憐れみが人の不完全さに対するわたしたちのいら立ちを和らげるように祈ります。これはわたしたちへの救い主の招きです。わたしは証します。主は生きておられ,寛大で忍耐強い弟子の完全な模範となる御方です。わたしはこれらの真理について証します。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ7:17

神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。

 

 

「純粋な証」2000年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会

デビッド・0・マッケイ大管長が証を得た方法について、自ら語っている言葉に耳を傾けてみましょう。少年時代に彼はひざまずいて、「ジョセフ・スミスに与えられた啓示が真実であることを神に示していただこうと、幼い子どもが持つことのできる信仰を精いっぱい使って、熱心に、誠心誠意で祈りました。」

 

マッケイ大管長は、立ち上がったとき、「霊的な現れは何もありませんでした。正直言ってわたしは、祈る前と何も変わらない元のままの〔少年〕であることを認めざるを得ませんでした」と語りました。

 

そのとき幼いデビッドが心に何を感じていたかは知りません。しかし、きっと望んでいたような霊的な経験ができなかったことに落胆していたことでしょう。もしかしたら、失望していたかもしれません。だからといって、その知識を探し求めるのをやめたわけではありませんでした。

この祈りの答えは確かに与えられました。しかしそれは、何年も後の、宣教師として働いていたときのことでした。彼の祈りの答えはなぜ、それほど先に延ばされたのでしょうか。マッケイ大管長はこの霊的な現れが「義務を果たした自然の結果として与えられた」(Cherished Experiences from the Writings of President David O. McKayクレア・ミドルミス編、16)  ことを信じていました。

 

救い主は同じような原則を教えておられます。御自身のメッセージに疑問を投げかけられたとき、このように宣言されました。「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」ヨハネ7:17

 

たとえ祈りの答えが直ちに与えられなくても失望しないでください。研究し、深く考え、信仰をもって誠心誠意祈り、戒めを生活で実行してください。

 

「あなたがたは、自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ、証は得られないからである」とモロナイは教えています。エテル12:6