「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -387ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ12:7
その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。


「神聖な計らいにより」2017年10月、ロナルド・A・ラズバンド、十二使徒定員会
あるとき,ジョセフ・B・ワースリン長老はトーマス・S・モンソン大管長からこう言われました。「天には導いてくださる御方がいます。何か出来事があるとすれば,それは偶然ではありません。いつの日か,わたしたちの人生で偶然の一致のように思えるような出来事について振り返ってみれば,結局それは偶然の一致とは言えないということに気づくでしょう。」(ジョセフ・B・ワースリン「人生という旅の中で学んだ教訓」 『リアホナ』2001年5月号,38参照)

わたしたちの善い行いが人に知られることはほとんどありません。しかし,すべての善い行いが天に記録されています。いつの日か,わたしたちは自分が行った義の業への心からの献身について見証することになります。いかなる試練も災難も神の幸福の計画を妨げることはできません。実に,「神聖な計らい」により,「朝と共に喜びが来る」のです。(詩篇30:5) 「わたしは父の御心を行うために世に来た。」イエスはそう教えておられます。(3ニーファイ27:13) 愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしたちも御父の御心を行うために世に来たのです。

人生の旅で経験したことを通して,わたしは理解しました。主は御父の業を行うために,わたしたちを一見チェス盤のようなものの上で動かされます。偶然のように思われても,実は,愛にあふれる天の御父から見守られているのです。御父はわたしたちの髪の毛までも,みな数えることがおできになるのです。(ルカ12:7 参照) 御父の許しなしに,一羽のすずめも地に落ちることはないのです。(マタイ10:29参照) 主の影響はわたしたちの生活の細部にまで及んでいます。わたしたちは,そうした様々な出来事や機会を通して備えられ,自分の家族や周囲の人々を励まし,地上における神の王国を建設することができるのです。主がアブラハムにこう語られたことを思い出してください。「わたしは初めから終わりを知っている。それゆえ,わたしの手はあなたのうえにある。」(アブラハム2:8)

……

皆さんは,自分の生活で何を見いだすべきでしょうか。皆さんにとって,神が近くにおられ,「わたしはここにいる」とおっしゃっているのを感じさせる奇跡は何でしょうか。主が皆さんの人生に働きかけ,さらに再び働きかけられた,そのような時のことを思い出してください。それを主が皆さんと皆さんの選択に信頼を寄せられた瞬間として,大切にしてください。しかし,皆さんが自分でする以上に,皆さんを偉大にする力をお持ちの主にすべてゆだねてください。主のかかわりを大切にしてください。わたしたちは計画の変更は旅のつまずきと考えることがあります。そうではなく,そのような変更を「主の用向きを受け……る」最初の一歩と考えるようにしてください。(教義と聖約64:29)

……

わたしたち一人一人は貴く,主に愛される存在です。主はわたしたち一人一人を独特な方法で気遣い,ささやきかけ,見守っておられます。主は人よりもはるかに賢く,大きな力をお持ちです。わたしたちの試練と成功,そして義にかなったわたしたちの心の望みを知っておられます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。


「思いやり」2001年4月、トーマス・S・モンソン、大管長会
深い思いやりを込めた関心について、イエスは多くの模範を示しておられます。ベテスダの池での体の不自由な人、姦淫を犯して連れて来られた女、ヤコブの井戸の女、ヤイロの娘、マリヤとマルタの兄弟ラザロ、それぞれがエリコへの道での負傷者を表しています。彼らは助けを必要としていました。

ベテスダの池において、イエスは体の不自由な人に向かって言われました。「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい。」(ヨハネ5:8) 罪を犯した女には勧告が与えられました。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」(ヨハネ8:11) 水をくみに来た女には、永遠の命に至る水がわき出る泉を与えられました。(ヨハネ4:14参照) ヤイロの死んだ娘には「タリタ、クミ。少女よ、さあ、起きなさい」(マルコ5:41) と命じられました。墓に葬られたラザロには「出てきなさい」と呼びかけられました。(ヨハネ11:43)

救い主は常に無限の思いやりを示されました。

 

 




次のような意味の深い質問をする人がいることでしょう。「これらの出来事は世の贖い主に関するものです。そのような心に深く刻まれる経験は、わたしのエリコへの道で、わたし自身にも実際に起こり得るのでしょうか。」

わたしは主の言葉に合わせて申し上げます。「きてごらんなさい。」(ヨハネ1:39)


……

主はまさにそのとおりの意味で、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と……共に〔いる〕であろう」(黙示3:20) とわたしたちに語りかけておられるのです。

主がたたいておられる音に耳を傾けようではありませんか。心の扉を開いて、まことの思いやりを生きた模範として示された主が入って来られるようにしようではありませんか。イエス・キリストの御名により心から祈ります。アーメン

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ8:7
彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。


「憐れみ深い人たちは憐れみを受ける」2012年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
非難と不親切の世界では,石を集めて投げることは容易です。しかし,そうする前に,わたしたちの主であり模範である御方の言葉を思い出しましょう。「あなたがたの中で罪のない者が,まず……石を投げつけるがよい。」(ヨハネ8:7)

兄弟姉妹,石を置きましょう。

親切になりましょう。

赦しましょう。

穏やかに語り合いましょう。

神の愛を心に満たしましょう。

「だれに対しても……善を行」いましょう。(ガラテヤ6:10)

救い主はこのように約束されました。「与えよ。そうすれば,自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ,ゆすり入れ,あふれ出るまでに量をよくして……くれるであろう。あなたがたの量るその量りで,自分にも量りかえされるであろうから。」(ルカ6:38)

この約束は,後ろ向きの態度をやめて,常に人を思いやり,赦し,愛するために払う努力に十分見合うのではないでしょうか。

イエス・キリストの弟子として,善をもって悪に報いるようにしましょう。(マタイ5:39-41参照) 報復を求めず,怒りに負かされないようにしましょう。

「『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。

むしろ,『もしあなたの敵が飢えるなら,彼に食わせ,かわくなら,彼に飲ませなさい。……』

悪に負けてはいけない。かえって,善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

覚えておいてください。結局,憐れみを受けるのは憐れみ深い人たちなのです。(マタイ5:7参照)