ヨハネ7:16,28
そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。…… イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。
「父親らの手で」(英文)1999年4月、ジェフリー・ R・ ホランド、十二使徒定員会
主が教導の業を始めて間もないころ,主はへりくだってこのように言われました。「わたしは,自分からは何事もすることができない。……わたし自身の考えでするのではなく,わたしをつかわされたかたの,み旨を求めている……。」(ヨ八ネ5:30)
聞く者をその力と権能で圧倒した教えに続いて,主は言われます。「わたしの教はわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。わたしは自分からきたのではない。……わたしをつかわされたかたは真実である……。」(ヨハネ7:16,28) そして後に再びこう言われます。「わたしは自分から語ったのではなく,わたしをつかわされた父ご自身が,わたしの言うべきこと,語るべきことをお命じになったのである。」(ヨハネ12:49)
御父にまみえたいと望み,イエスがその言われるとおりの御方であると直接御父からお聞きしたいと望む人に対して,主はこのようにお答えになりました。「もしあなたかたがわたしを知っていたならば,わたしの父をも知ったであろう。……わたしを見た者は,父を見たのである。」(ヨハネ14:7,9) イエスが弟子たちの中に一致を保ちたいと望んだとき,主は御自身と神との関係を例に取って祈られました。「聖なる父よ,わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためであります。」(ヨハネ17:11)
主は十字架に向かうときでさえ,それを阻止しようとした弟子たちを静止して言われました。「父がわたしに下さった杯は,飲むべきではないか。」(ヨハネ18:11) 言葉に表現し難いほどの試練が終わると,主は最も平安にあふれ,現世での教導の業の報いに値する言葉を口にされました。苦痛の最後に,主はこう言われたのです。「『すべてが終った。』……父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます。」(ヨハネ19:30,ルカ23:46) そしてすべてが終わり,主は御父のもとに戻られたのです。
わたしは正直幾度もその瞬間について,そしてその後すぐに起こった復活について考えました。そして御父と御子との再会はどのようなものだったのかと思いました。あれほど御子を愛しておられた御父,そしてすべての言葉と行いで御父に栄光を帰して尊んだ御子。それまで一つであった御二方が再会されたとき,抱擁はどのようなものだったでしょう。神である同僚同士として,今どのように過ごされているのでしょうか。わたしたちはただ想像し,敬服するほかありません。わたしたちは復活祭の週末に,そのような関係を幾分か自分でも体現できるような生活をしたいと切に望んでいます。
