ヨハネ7:15-17
すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。 そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教はわたし自身の教ではなく、わたしをつかわされたかたの教である。 神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。
「さまざまな他の声」(英文)1989年4月、ダリン•H ・オークス、十二使徒定員会
「『この人は学問をしたこともないのに,どうして律法の知識をもっているのだろう。』そこでイエスは彼らに答えて言われた,『わたしの教はわたし自身の教ではなく,わたしをつかわされたかたの教である。神のみこころを行おうと思う者であれば,だれでも,わたしの語っているこの教が神からのものか,それとも,そわたし自身から出たものか,わかるであろう。』」(ヨハネ7: 15-17)
モルモン書は,熱心に求める者には「神の奥義(が〕聖霊の力によって……開かれる」と教えています。(1ニーファイ 10:19 。 1コリント 2:4-16;アルマ18:35;教義と聖約121:26 参照) 予言者ヤコブは,人が霊感を受けずに神を知ることは不可能であると言明しました。「主の道が啓示されなかったならこれを知る者は一人もない。それであるから兄弟たちよ,神の下さる啓示を軽んじてはならない。」(モルモン書ヤコブ4:8)
神聖な知識を得るために主が定められた方法は,研究によってのみ知識を得ようとする人々の方法とは異なっています。たとえば,学術研究の場でよく用いられる方法に,対立する論者を立てて意見を闘わせる討議方法があります。私自身このような討議をかなり経験しました。しかし主は,古代および現代の聖典の中で,教義のいずれの点についても論争してはならないと教えられました。(3ニーファイ 11:28-30 ;教義と聖約10:63参照) 福音の教師は「怒ることなく,争うことなく」説くように命じられており(教義と聖約60:14。2テモテ 2:23-25参照),「温和にしてへりくだり」(教義と聖約38:41), 「そしる者をそしり返す」(教義と聖約19:30) ことなく対応しなければならないのです。同様に,論争のために工夫された技術や,意見の相違を見つけて妥協させるやり方は,福音の知識を得るには効果的ではありません。福音の真理や証は,敬虔な気持ちで行なう個人の勉強と,静かな瞑想によって聖霊から与えられるものです。
主は,聖典の中で信仰によって学ぶ方法を示しておられます。私たちはまず,へりくだって信仰を養い,罪を悔い改め,同胞に仕え,神の戒めを守らなければなりません。(エテル12:27;教義と聖約1 :28 ;12 :8 ;50 :28 ;63:23 ;136:32-33参照)モルモン経には次のように述べられています。「悔い改めて信仰をあらわし,善いことを行ってたえず祈る者は,神の奥義を悟る能力を授か……る。」(アルマ26:22)
教会や福音を論理だけで理解しようとしたり,批判しようとする人々をときどき見かけることがあります。彼らは啓示を調べ,それを認めようとはしません。論理だけに頼るか,あるいは論理を主要な手段にして福音を理解しようとしても,結果は知れています。神が福音の真理を知るために定められた方法を無視して,神を見いだそうとしたり福音の教義や儀式を理解しようとしても徒労に終わるだけです。権威を持たず神からの啓示を否定した学者たちの解説や保護にゆだねられたときに,福音の真理が腐敗し,儀式が失われたのはこのためでした。
