「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -390ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ18:15
もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。


「つぶやくことなかれ」(英文)1989年10月、ニール・A・マツクスウエル、十二使徒定員会
あくびがときには言葉以上の意味を伝えてしまうように, つぶやきもただの言葉以上の意味を持つことがあります。

……

つぶやきの原因は, 人生は楽なものだと思うことにあります。行く先々の信号はみな青,駐車場はいつも空いているという状態を思い浮かべるからなのです。

最悪の場合は,つぶやきが単なる不満のみに終わらず神への挑戦となることがあります。

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ぶどう園のたとえ話でイエスは,「一日じゅう,労苦と暑さを辛抱した」雇い人が,最後の1時間しか働かなかった雇い人と同じ給料だったのでつぶやいたことに弟子たちの注意を喚起しました。マタイ20:11-12参照)物もらいであるにもかかわらず,私たちは自分の権利にあまりにも固執してしまいます。

……

こうした例についてよく考えてみるといくつかのことがわかってきます。

まず,つぶやく人には自分の悩みを公然と口に出して言う勇気がないということです。たとえば,友について不平を言う場合,つぶやく人はイエスの勧告に従わないことになります。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら,行って,彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら,あなたの兄弟を得たことになる。」マタイ 18:15 )

第2に,つぶやく人は自分では実際に行動せず口先で他人に悪いことをさせるように仕向ける人です。自分で石を取って投げず,ほかの人に投げさせるのです。

第3に,つぶやく人は自分の感情をただ一方的に外へぶつけるだけであって,それに対して人がどのように応じようともだれにでも敵対心を向けるのです。(2ニーファイ1:26参照)それに,聴く人がそうした不平にどれだけ耐えられるかを考えません。

第4に,つぶやく人は物をよく忘れます。イスラエルの民はシナイに到着し,その後聖地へ向けて旅を続けましたが,ときおり飢え渇くことがありました。しかし,主がうずらを運び,岩を打って水を出すなどの奇跡を起こし,彼らを救われました。民数 11:31 :出エジプト17:6参照)その彼らが過去の恵みをすぐに忘れてあれこれと注文ばかりするのです。過去の恵みを忘れれば先を見通すことはできません。

次にあげる旧約聖書の力強い一節は,私たちに真実を思い起こさせてくれます。

「あなたの神,主がこの四十年の間,荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて,あなたを試み,あなたの心のうちを知り,あなたがその命令を守るか,どうかを知るためであった。」申命8: 2)

先を見通す力を持てるかどうかによって,毎日の生活は随分大きく変わってきます。サタンには神のみこころがわからないと言われていますが,それももっともなことです。モーセ4:6参照)

……

私たちが背負うべき十字架の重さへのつぶやきは,十字架を背負うためのエネルギーを浪費させるのみならず,ほかの人からもその人が自分で十字架を背負う力を奪い取ってしまうのです。余計なものを背負わなければ十字架はもっと軽くなるのです。私たちが最も重いと感じるのは,主と交わした約束を果たさなかったり罪を悔い改めないために私たちにのしかかっている罪の重荷です。真心から主に身を捧げた人はこう言いました。「わたしはあなたを知……るように,自分の罪をすべて捨てます。」アルマ22: 18)  私たちはどなたに罪を担ってもらうのでしょうか。イエスだけが喜んで担ってくださるのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ18:12-14
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。


「クリスチャンとして,キリストのような特質を高める」2012年10月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
多くの人にとって,クリスチャンになるという呼びかけは,厳しく,ときには過酷なものにすら思えることがあります。でもわたしたちは恐れたり,自分はふさわしくないと感じたりする必要はありません。救い主はわたしたちに,主の業を行う資格と能力を授けると約束しておられます。主はこう言われました。「わたしについてきなさい。〔わたしが〕あなたがたを,人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19) わたしたちが主に従うとき,主の業を行うための賜物,才能,強さを授かり,今楽にできること以上のことを行うことによりさらに成長し,これまでに不可能だと思ったこともできるようにしていただけるのです。そのためには,隣人に福音を分かち合い,霊的な意味で道に迷った人を救い出し,専任宣教師として働き,神殿に参入し,特別な必要を抱えた子供を育て,放蕩息子を愛し,病気の配偶者に仕え,誤解や苦難に耐える必要があるかもしれません。それは,次のように言って,主の呼びかけにこたえるよう自分を備えるということなのです。「主よ,み旨のまま行かん。主よ,み旨のまま言わん。み旨に添いまさん。」(「み旨のまま行かん」『賛美歌』, 172番参照)

天の御父が望んでおられるようになるために,わたしたちはイエス・キリストに従います。主はたえず御自身に従うようにわたしたちに呼びかけておられると証します。もしあなたが末日聖徒は献身的なクリスチャンであることについて学び始めたばかりであるなら,あるいはこれまで教会に十分に参加してこなかったけれども,再び主に従いたいと思うなら,恐れないでください。主の最初の弟子たちは皆,教会の新会員であり,主の福音に新たに改宗した人たちでした。イエスは辛抱強く一人一人を教え,それぞれの責任を果たせるように助け,主の友と呼び,彼らのために命をささげてくださったのです。同じことを,皆さんとわたしのためにもすでにしてくださっています。

主の無限の愛と恵みを通して,わたしたちはクリスチャンとして,キリストのような特質をさらに高めることができると証します。次に挙げるキリストのような特質について考えてください。わたしたちはどのようにして自身の内で,そのような特質を養っているでしょうか。

 

クリスチャンらしい愛 。救い主は一人一人を大切にしておられます。すべての人に対して優しく哀れみ深い主は,99匹を残して迷い出た1匹を捜しに出かけられました(マタイ18:12–14参照)。なぜなら,主にとっては,「〔わたしたちの〕頭の毛までも,……数えられている」からです(ルカ12:7)

 

クリスチャンらしい信仰 。誘惑や試練,迫害にもかかわらず,救い主は天の御父を信頼し,忠実に御父の命令に従う道を選ばれました。

 

クリスチャンらしい犠牲。生涯にわたり救い主は,御自分の時間,労力,そして最後には贖いを通して御自身をささげられました。神の子供たちが皆,復活し,永遠の命を受け継ぐ機会を得るようにするためです。

 

クリスチャンらしい思いやり。良いサマリヤ人のように救い主は,文化や宗教,境遇の違いにかかわらず,周囲の人を救い,愛し,養うために,絶えず手を差し伸べられました。

 

クリスチャンらしい奉仕。救い主はほかの人に仕える,すなわち疲れた人を助け,弱い人を強めるために,日々を過ごされました。例えば,井戸から水をくむ,魚を料理する,汚れた足を洗うなどの奉仕をされました。

 

クリスチャンらしい忍耐。救い主は御自身の悲しみや苦しみの中にあって,御父を待ち望まれました。わたしたちに対して忍耐心をもって,わたしたちが正しい道を悟り,みもとへ帰るのを辛抱強く待っておられます。

 

クリスチャンらしい平安。救い主は教え導くときにいつでも,理解し合うように強く勧め,平和を推進されました。特に弟子たちの間では,クリスチャンは互いの相違にかかわらず,ほかのクリスチャンと争ってはならないとお教えになりました。

 

クリスチャンらしい赦し。救い主は,自分をのろう者を祝福するようにお教えになりました。主は,御自分を十字架にかけた人々が赦されるように祈ることによって,模範を示されました。

 

クリスチャンらしい改心。ペテロやアンデレのように,多くの人は福音を聞くや否や,福音が真実だと分かります。即座に改心するのです。でも,もう少し時間がかかる人もいます。ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示の中で,主はこう教えておられます。「神から出ているものは光である。光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして,その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」(教義と聖約50:24) つまり,真昼のように完全に輝く改心に至るのです。イエス・キリストは「世の光であり,世の贖い主であり,……真理の御霊」です(教義と聖約93:9)

 

クリスチャンらしく最後まで堪え忍ぶ。救い主は生涯を通して,御父の御心を行うのをおやめになることはありませんでした。この世の人生の終わりまで,正義,善,慈悲,真理の道を歩み続けられました。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ18:11
人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。


「わたしたちの良い羊飼い」2017年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
聖文の至る所で,神は罪に対する比喩として病を用いておられるので,「わたしたちの比喩的な病,すなわち罪に直面するとき,イエス・キリストはどのような反応を示されるだろうか」と問うのはもっともなことです。結局のところ,救い主は「ほんのわずかでも罪を見過ごしにすることはない」(教義と聖約1:31) と語っておられます。そうであるなら,救い主はどのようにして,嫌悪を抱き,愛想を尽かして見捨てることもなく,不完全なわたしたちを御覧になっているのでしょうか。

その答えは簡潔かつ明瞭です。良い羊飼いとして,(ヨハネ10:11,14アルマ5:38教義と聖約50:44 参照) イエス・キリストは御自分の羊の病を,治療や世話,思いやりが必要な状態と見ておられます。わたしたちの良い羊飼いであられるこの御方は,病にかかった御自分の羊が癒しに向かって進み行くのを見ることに,喜びを見いだされるのです。

救い主は「牧者のようにその群れを養い」,(イザヤ40:11) 「うせ〔ている〕ものを〔探し出し〕,迷い出〔ている〕ものを引き返し,傷つい〔ている〕ものを包み,弱っ〔ている〕ものを強く〔する〕」(エゼキエル34:16) と預言しておられます。背教したイスラエルは,罪深い「傷と打ち傷と生傷」(イザヤ1:6) によって弱り果てていると表現されていますが,救い主は彼らを励まし,熱心に勧め,癒しを約束されたのです。(イザヤ1:18参照)

現世での救い主の教導の業において際立っていたのは,実にその愛と思いやり,共感です。主はガリラヤやユダヤのほこりにまみれた道を,人々を蔑みながら歩かれたことはなく,罪人を御覧になってもたじろがれませんでした。絶望的な嫌悪感から人々を避けるどころか,主は彼らとともに食事をされました。(ルカ15:1-2参照) 主は助けの手を伸べ,祝福し,高めて教化し,そして恐れと絶望を,希望と喜びへと変えられたのです。ほんとうの羊飼いのように,主はわたしたちを探し,見いだし,安らぎと希望を与えてくださいます。(マタイ18:11参照) 主の思いやりと愛を理解するなら,わたしたちは悔い改め,癒しを受けるために,主に対する信仰を働かせることができるようになります。