「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -384ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ19:20-22
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。


「種と土壌について」(英文)1999年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
永遠の命を得るためにどうしたらよいかを救い主に尋ねた金持ちの青年のように,いばらによって苗床がふさがれてしまう場合もあります。この青年は幼いときから十戒をすべて守ってきたと言ってから,「ほかに何が足りないのでしょう」と尋ねました。イエスは青年が自分の持っている富に執着していることに気づいて,福音の高度な律法をお教えになりました。「あなたの持ち物を〔すべて〕売り払い,貧しい人々に施しなさい。そうすれば,天に宝を持つようになろう。そして,わたしに従ってきなさい。」マタイは「この言葉を聞いて,青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである」と記録しています。(マタイ19:20-22)

この青年には種が植えられていましたが,持っていた富のために,その種はいばらの中に埋もれて,ふさがれてしまったのです。

……

わたしたちは信仰の種が根を伸ばし続けるように,その種を育てる必要があります。

……

信仰の種を生活の中でふくらませるには,サタンの影響を取り除かなければなりません。

わたしたちはまた,信仰を育てるために自分自身の苗床を作らなければなりません。そのためには,強さと赦しを求める祈りを毎日ささげることによって地面を耕す必要があります。高慢な心に打ち勝つことによって畑をならす必要があります。能力のかぎりを尽くして戒めを守ることによって苗床を作る必要があります。わたしたちは什分の一とそのほかのささげ物を納める際に,主に対して正直である必要があります。神権の偉大な力を招いて自分自身や家族,そのほか責任下にある人々を祝福することができるように,ふさわしくなる必要があります。信仰という霊的な種を育てるのに神聖な神殿や家庭ほど適している場所はありません。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ19:6
彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。


「人生で出会う女性たち」2004年10月、ゴードン・B・ヒンクレー、大管長
男性の中には尊大な気持ちから,自分は女性より勝っていると考える人がいます。そのような人は,産んでくれた母親がいなければ自分は存在しなかったことに気がついていないようです。自分の優位性を主張するとき,母親を卑しめているのです。ある人が言いました。「人が女性を蔑視するとき,必ず自分自身をもおとしめる。反対に,自分自身を高めずして,母親を高めることはできない。」(アレクサンダー・ウォーカー,Elbert Hubbard’s Scrap Book〔1923年〕,204)

まったくそのとおりです。人を卑しめることから生じる苦い結果を,日常よく目にします。離婚はその一つです。この社会の弊害はとどまるところを知りません。これは伴侶に対する敬意を欠いた態度の結果であり,そのような態度は,軽視,批判,虐待,無関心といった形で表れます。わたしたち教会員もその影響を免れません。イエスははっきりとおっしゃいました。「彼らはもはや,ふたりではなく一体である。だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない。」マタイ19:6

ここで「人」という言葉は一般的な意味で使われていますが,実際は,離婚に至る状態を引き起こすのはほとんどが男性です。

何年にもわたり何百組という離婚に対応してきて,確信していることがあります。ある原則を実行することで,この深刻な問題に対し,ほかの何にも増して効果的な解決が得られるのです。

すべての夫,すべての妻が,伴侶の心を休め,伴侶を幸せにすることを絶えず実行するならば,離婚などほとんどなくなるでしょう。言い争いはなくなり,非難を浴びせる声も消えるでしょう。怒りを爆発させることもなくなります。そして虐待と辛辣な言動が,愛と思いやりに変わるでしょう。

何年も前にはやったこの歌をよく歌ったものです。

幸せになりたい
でも,幸せにはなれない
君を幸せにするまでは
(アービング・シーザー “I Want to be Happy”〔1924年〕)

ほんとうにそのとおりです。

すべての女性は神の娘です。女性に不快な思いをさせれば,神をも不快にしてしまいます。この教会の男性の皆さんにお願いします。皆さんの伴侶の内にある神性を求め,養ってください。家庭がいかに調和と平安に満ち,豊かで,愛がはぐくまれる場所となるかは,夫がいかに妻の神性を養うかに懸かっています。

マッケイ大管長はよく次のことを思い起こさせてくれました。「〔人生の〕いかなる成功も,家庭の失敗を償うことはできない。」( J・E・マカロック,Home: The Savior of Civilization〔1924年〕,42から引用;Conference Report,1935年4月,116)

同様に,リー大管長は次の真理を思い出させてくれました。「あなたがたが行う最も大切な主の業は,家庭という囲いの中にある。」(“Maintain Your Place as a Woman” Ensign,1972年2月号,51)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ15:8-10
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。


「疑いをいだく人々があれば,彼らをあわれみ…」(英文)1987年4月、ロバート・D・ヘイルズ、管理監督
私たちが人々を「あわれむ」うえで助けとなる原則があります。それはルカによる福音書第15章に書かれています。ここでイエスは, 失われた人々を見つけることの重要性について3つのたとえを使って話しておられます。

失われた羊のたとえでは, 羊飼いは迷った羊を懸命になって捜し, 見つけ出しました。そして大いに喜びました。(ルカ15:4-7)

失われた銀貨のたとえでは, やもめはろうそくをともし, 家のすみずみまで掃いて捜し, 失われた銀貨をついに見つけて大いに喜びました。(ルカ15:8-10)

どちらのたとえも, 見つけ出すための行動や暗やみで火をともすこと, また失われた物や人が戻るまで捜し続けることの例です。

一方, 放蕩息子のたとえでは, やさしい父は, その息子が戻って来るまで忍耐強く待っています(ルカ15:11-32)。彼は愛に満ちた家庭環境を作り出し, 両手を広げて息子を迎えたのです。そして共に喜び合いました。ポイントは, その息子が家に帰れば, 父から愛され歓迎されると, 知っていたことです。

しかし, 家に戻ること自体, 決して生やさしいことではありません。放蕩息子が家に帰ると, 忠実な兄は悔い改めた弟へのもてなしにしっとしました。、忠実な兄は批判的で, 弟の帰宅を喜ぶことができるほどには霊的に成熟していませんでした。そこで父は, 忠実な息子に父の愛を再確認したのです。

さて, 帰ってきた放蕩息子自身も, 父親が自分に対して示した赦しと愛を, しっとしている兄に対して示す機会を得ました。帰って来る者にとっても, ほかの人々を赦すという態度が必要です。そうでなければ, 完全な悔い改めは不可能です。

もし私たちの過ちを主やほかの人々から赦してもらいたければ, まず第1にほかの人を赦すことです。戻って来る人は人を裁いてはいけません。完全な人はいないのだということをしっかりと心に刻みつけることです。