「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -385ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ15:1-2
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。


「わたしたちの良い羊飼い」2017年4月、デール・G・レンランド、十二使徒定員会
救い主は「牧者のようにその群れを養い」,(イザヤ40:11)「うせ〔ている〕ものを〔探し出し〕,迷い出〔ている〕ものを引き返し,傷つい〔ている〕ものを包み,弱っ〔ている〕ものを強く〔する〕」(エゼキエル34:16) と預言しておられます。背教したイスラエルは,罪深い「傷と打ち傷と生傷」(イザヤ1:6) によって弱り果てていると表現されていますが,救い主は彼らを励まし,熱心に勧め,癒しを約束されたのです。(イザヤ1:18参照)

現世での救い主の教導の業において際立っていたのは,実にその愛と思いやり,共感です。主はガリラヤやユダヤのほこりにまみれた道を,人々を蔑みながら歩かれたことはなく,罪人を御覧になってもたじろがれませんでした。絶望的な嫌悪感から人々を避けるどころか,主は彼らとともに食事をされました。(ルカ15:1-2参照) 主は助けの手を伸べ,祝福し,高めて教化し,そして恐れと絶望を,希望と喜びへと変えられたのです。ほんとうの羊飼いのように,主はわたしたちを探し,見いだし,安らぎと希望を与えてくださいます。(マタイ18:11参照) 主の思いやりと愛を理解するなら,わたしたちは悔い改め,癒しを受けるために,主に対する信仰を働かせることができるようになります。
 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ14:27
自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。


「天から下ってきた生きたパン」2017年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
わたしたちがキリストの内にとどまり,キリストがわたしたちの内にとどまられることを願うとき,(ヨハネ6:56参照) 肉体と霊の両面で求めるべきは聖さです。(ローマ12:1参照) わたしたちは「聖きを主にささぐ」と刻まれた神殿で聖さを求めます。夫婦関係や家族,家庭で聖さを求めます。毎週,主の聖日を喜びとするときに聖さを求めます。(イザヤ58:13参照) また,言葉と服装と思いなど,日常の細かい部分でも聖さを求めます。トーマス・S・モンソン大管長はこう述べています。「わたしたちは自分の読むもの,見るもの,聞くもの,考えることのすべてによって形造られるのです。」(Teachings of Thomas S. Monson, comp.Lynne F. Cannegieter (2011), 267) わたしたちは毎日,自分の十字架を負うときに聖さを求めます。(マタイ16:24ルカ9:2314:27-30ルカ14:27ルカ14:30)

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ルカ13:14
ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。


「主イエス・キリストの弟子となる」2017年4月、ロバート・D・ヘイルズ、十二使徒定員会
多くの人は弟子と聞くと,単に「従う者」という意味だと考えます。しかし,真の弟子が意味するのは,そのような人物に「なる」ということです。つまり,個人の特質の一覧表を研究して実践する以上のことなのです。主の弟子は,自らの人格にキリストの特質を織り込み,霊のタペストリーを作るように生活します。

救い主の弟子となるように招く,使徒ペテロの言葉に耳を傾けてください。

「あなたがたは,力の限りをつくして,あなたがたの信仰に徳を加え,徳に知識を,

知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に信心を,

信心に兄弟愛を,兄弟愛に愛を加えなさい。」(2ペテロ1:5-7)

この聖句から分かるように,主の弟子として自分の霊のタペストリーを織るのに必要な糸は,1本だけではありません。救い主の時代,自らが生活のある面において義にかなっていることを主張する人が大勢いました。彼らは,わたしがえり好みの従順と呼ぶものを行っていたのです。例えば,安息日には働かないようにとの戒めは守りましたが,その聖日に病人を癒された救い主を非難しました。(ルカ13:14参照) 貧しい人に施しましたが,自分の必要としない余ったものだけを差し出しました。(ルカ21:4参照) 断食しましたが,その表情は陰気でした。(マタイ6:16参照) 祈りましたが,ただ人に見せようとして行いました。(マタイ6:5アルマ38:13も参照) 「彼らは唇をもってわたしに近づくが,その心はわたしから遠く離れている」と,イエスは述べておられます。(ジョセフ・スミス—歴史1:19イザヤ29:13ルカ6:46も参照) そのような男女は,特定の特質や振る舞いを身につけることに心を注ぐかもしれませんが,その内面は必ずしも,主に似た者とはならないのです。‎

……

救い主の数々の特質を,倣うべき台本,もしくはなすべきことを列挙したチェックリストのように捉えるべきではありません。それは,様々な特性が織り込まれ,重なり合い,影響し合いながら,わたしたちの内面に育まれていくものなのです。つまり,キリストのような特質の一つを身につけるには,ほかの特質も身につけ,影響をもたらすことが欠かせません。一つの特質が強まれば,ほかの多くの特質も強まります。