ルカ15:8-10
また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。 そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
「疑いをいだく人々があれば,彼らをあわれみ…」(英文)1987年4月、ロバート・D・ヘイルズ、管理監督
私たちが人々を「あわれむ」うえで助けとなる原則があります。それはルカによる福音書第15章に書かれています。ここでイエスは, 失われた人々を見つけることの重要性について3つのたとえを使って話しておられます。
失われた羊のたとえでは, 羊飼いは迷った羊を懸命になって捜し, 見つけ出しました。そして大いに喜びました。(ルカ15:4-7)
失われた銀貨のたとえでは, やもめはろうそくをともし, 家のすみずみまで掃いて捜し, 失われた銀貨をついに見つけて大いに喜びました。(ルカ15:8-10)
どちらのたとえも, 見つけ出すための行動や暗やみで火をともすこと, また失われた物や人が戻るまで捜し続けることの例です。
一方, 放蕩息子のたとえでは, やさしい父は, その息子が戻って来るまで忍耐強く待っています(ルカ15:11-32)。彼は愛に満ちた家庭環境を作り出し, 両手を広げて息子を迎えたのです。そして共に喜び合いました。ポイントは, その息子が家に帰れば, 父から愛され歓迎されると, 知っていたことです。
しかし, 家に戻ること自体, 決して生やさしいことではありません。放蕩息子が家に帰ると, 忠実な兄は悔い改めた弟へのもてなしにしっとしました。、忠実な兄は批判的で, 弟の帰宅を喜ぶことができるほどには霊的に成熟していませんでした。そこで父は, 忠実な息子に父の愛を再確認したのです。
さて, 帰ってきた放蕩息子自身も, 父親が自分に対して示した赦しと愛を, しっとしている兄に対して示す機会を得ました。帰って来る者にとっても, ほかの人々を赦すという態度が必要です。そうでなければ, 完全な悔い改めは不可能です。
もし私たちの過ちを主やほかの人々から赦してもらいたければ, まず第1にほかの人を赦すことです。戻って来る人は人を裁いてはいけません。完全な人はいないのだということをしっかりと心に刻みつけることです。
