「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -376ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。


「わたしと一緒に目をさましていなさい」2001年4月、ヘンリー・B・アイリング長老、十二使徒定員会
救い主が裏切りや十字架の苦しみに先立ち、激しい苦痛を受けるためにゲツセマネの園へ行かれたとき、主は一人で行くこともおできになったはずです。しかし御自分の神権を持つ僕を連れて行かれました。マタイは次のように説明しています。「そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい。』」(マタイ26:38)

救い主は力を求めて天父に祈られました。そして苦しみのさなか、ペテロのもとに戻り、ともに見守るべきすべての者にとって必要な事柄をお教えになりました。「それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、『あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。

誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。』」(マタイ26:40-41)

主とその牧者とのこの簡潔な会話の中に、慰めと警告が含まれています。主はわたしたちと一緒に見守っておられます。主はすべての事柄を理解し、果てしない愛をもって、決して眠ることなくわたしたちと一緒に見守っておられるのです。主は羊がその都度必要としているものを御存じです。聖霊の力により、主はわたしたちにそれを告げ、彼らのもとにわたしたちを送られるのです。そしてわたしたちは神権により、主の力を招き、彼らを祝福するのです。

しかし主のペテロへの警告は、わたしたちへの警告でもあります。羊を殺してしまうおおかみは、間違いなく牧者をも攻撃します。ですからほかの人のことだけでなく、自らのことにも注意を払わなくてはなりません。牧者も罪の淵まで近づくよう誘惑を受けます。しかしいかなる罪も聖霊の導きの妨げとなるものです。そのような妨げとなる行いや場所は絶対避けるべきです。そのような危険を冒す余裕などありません。皆さんが罪に陥るならば、皆さんは自分自身の罪のみに責任を負うのではありません。もし皆さんがふさわしさを保ち、御霊のささやきに聞き従っていたのであれば、悲しむ必要のなかったほかの人々の悲しみに対しても責任を負うのです。牧者は、御霊の声を聞くことができ、天の力を行使することができなくてはなりません。さもなければつまずいてしまいます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:37,39
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 …… そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 


「わたしの愛のうちにいなさい」2016年10月、D・トッド・クリストファーソン長老、十二使徒定員会
神の貴い愛の代価について考えてみましょう。わたしたちの罪を贖い,わたしたちを死から贖うために,肉体的にも霊的にも苦しまれたイエスは,その苦しみをこのように明かしておられます。「神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは,その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」(教義と聖約19:18) ゲツセマネと十字架上での苦しみは,死すべき人にとっては耐えようのないものでした。(モーサヤ3:7参照) にもかかわらず,主は御父とわたしたちへの愛のゆえに,堪え忍ばれ,結果的に,不死不滅と永遠の命をわたしたちにもたらすことができるようになりました。

「あらゆる毛穴から血が流れ出る」という言葉は,きわめて象徴的です。(モーサヤ3:7) イエスは,オリーブ搾りの地,ゲツセマネで苦しまれたからです。救い主の時代には,オリーブ油を生産するのに,まずオリーブの上に大きな石を転がして潰しました。その「すり潰されたオリーブ」を,ゆるく編んだ柔らかい籠に入れ,その籠を積み重ねました。その重みで一番搾りの最も上質な油が搾り出されます。次に,積み重ねた籠の上に大きな梁や丸太を乗せて圧力をかけ,さらに多くの油を生産しました。最後に,文字どおり最後の一滴まで搾り取るために,梁の片方の端を石で重くして,最大限の圧力を加えました。(リチャード・ナイツェル・ホルツアップフェル他共著,Jesus Christ and the World of the New Testament (2006年),18;リチャード・ナイツェル・ホルツアップフェル他共著,Jehovah and the World of the Old Testament(2009年),281参照) ちなみに,最初に流れ出る油は血の色をしています。

あの運命の夜,ゲツセマネに足を踏み入れた救い主に関するマタイの記録を思い出します。主は「悲しみを催しまた悩みはじめられた。……

そして少し進んで行き,うつぶしになり,祈って言われた,『わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい』。」(マタイ26:37,39)

それから,その苦痛はさらに激しさを増したと思われ,主はもう一度苦痛からの解放を嘆願されます。最後に,恐らく苦しみの極みのときに,さらにもう一度嘆願されました。正義が最後の一滴まで満たされるように,主は,その激しい苦痛を堪え忍ばれたのです。(教義と聖約19:19参照) それは皆さんやわたしを贖うためでした。

神の愛は何と貴い賜物でしょう!その愛で満たされたイエスは,次のように問いかけておられます。「わたしがあなたがたを癒すことができるように,今あなたがたはわたしに立ち返り,自分の罪を悔い改め,心を改めようとしているか。」(3ニーファイ9:13) また,やさしく力づけておられます。「見よ,わたしの憐れみの腕はあなたがたに向けて伸べられている。わたしは来る者をだれでも受け入れよう。わたしのもとに来る者は幸いである。」(3ニーファイ9:14)

皆さんは,まず自分を愛してくださった御方を愛するのではないでしょうか。(1ヨハネ4:19参照) それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ14:15参照) 皆さんは,友のために御自分の命を捨てられた御方の友となるのではないでしょうか。(ヨハネ15:13参照) それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ15:14参照) 皆さんは,その御方の愛のうちにとどまり,思いやりをもって与えてくださるすべてを受け取るのではないでしょうか。それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ15:10参照) わたしたちが主の愛を感じ,十分に主の愛のうちにいられますよう,イエス・キリストの御名によって祈ります,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:34-35、69-75
イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。…… ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。


「キリストのような冷静さ」2023年4月、マーク・A・ブラッグ長老、七十人定員会
しかし,近ごろは冷静さが話題に上ることもあまりなく,また激動と対立の時代にあってはますます実践されなくなっています。スポーツでよく言われるように,冷静な選手は接戦でも動じることなく,冷静さを欠いたチームは崩壊します。しかし,このすばらしい特質は,スポーツにとどまりません。冷静さは人生に広く当てはまり,親や指導者,宣教師,教師,生徒,また人生の嵐に直面しているその他すべての人に祝福をもたらし得るものです。

霊的な冷静さは,特にプレッシャーを受けるとき,平静を保ち,最も重要なことに集中できる祝福をもたらします。ヒュー・B・ブラウン管長はこう述べています。「神への信仰と,最終的に正義が勝利するという信仰は,困難に直面する中で精神的および霊的な冷静さをもたらしてくれます。」(Hugh B. Brown, in Conference Report, Oct. 1969, 105.)

……

冷静さを失うことと保つことの違いを対比するために,キリストとその弟子たちがゲツセマネの園を去るときに起こったことを考えてみてください。イエスを捕らえようとした兵卒たちに向かい合ったときのペテロの反応は,冷静さを失うもので,大祭司の僕マルコスの耳を切り落とすという激しい対応に出ました。それに対して,イエス・キリストの反応は,冷静さを保つもので,マルコスを癒すことにより緊迫した状況に落ち着きがもたらされました。(ルカ22:50-51ヨハネ18:10-11参照)

また,冷静さを保つのに苦労し,恐らく落胆してしまった人々のために,ペテロの話の続きを考えてみてください。この出来事と,キリストとの関係を否定したことで悲嘆に暮れた(マタイ26:34-35,69-75参照) 少し後,ペテロは,救い主を責めたのとまったく同じ宗教指導者たちの前に立ち,厳しい尋問を受けながらも非常に冷静に,イエス・キリストの神性について雄弁に証を述べました。(使徒4:8-10参照。ニール・A・マックスウェル「与えられたもので満足する」『リアホナ』2000年7月号,89:「霊的な波長が合うと,『すべてのことの意味』を知らなくとも(1ニーファイ11:17),霊的な確信が生まれます。」)