「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -377ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:17-28
さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。



「本心に立ち返る:聖餐,神殿,奉仕による犠牲」2012年4月、ロバート・D・ヘイルズ長老
わたしたちはよく祈って聖約を守るとき,改心し,霊的に自立します。聖約を守るとはすなわち,ふさわしく聖餐を受け,神殿推薦状を持つにふさわしくあり,人々に奉仕するために犠牲を払うのです。

ふさわしく聖餐を受けるために,バプテスマのとき交わした聖約を新たにしていることを思い起こします。聖餐を毎週霊的に清める機会とするには,聖餐会に出席する前に備える必要があります。日常の仕事や娯楽を意識して離れ,この世的な思いや関心を捨てて,思いと心に聖霊を受けるゆとりを作るのです。

このようにして贖罪について深く考える備えをします。救い主の苦しみや死という事実についてただ思いを致すこと以上に,深く考えることで,救い主の犠牲を通してまさしく心からの変化を生活にもたらす希望,機会,力を得ることに気づきます。

聖餐の賛美歌を歌い,聖餐の祈りに参加して,主の肉と血の記念を受ける間,自分の罪や欠点について祈りの気持ちで赦しを求めます。前の週に交わし,そして守ってきた約束を思い起こし,次の週も救い主に従うために明確で個人的な決意をするのです。

親と指導者の皆さん,皆さんは青少年に,生活における贖罪の関連性について学び,話し合い,理解する特別な機会を設けることで,青少年が聖餐のたぐいまれな祝福を味わうのを助けることができます。自ら聖文を調べ,自分の経験から互いに教え合うよう彼らを導いてください。

父親,神権指導者,定員会会長会の皆さんには,アロン神権者が聖餐の神聖な務めを果たすため真剣に準備するよう助ける特別な責任があります。週の間中,福音の標準に添った生活をすることがこの準備となります。ふさわしく敬虔に聖餐を準備し,祝福し,配るときに,彼らは文字どおり,最後の晩餐(マタイ26:17-28ルカ22:1-20参照) における救い主の模範に従い,主のようになるのです。

聖餐は本心に立ち返り,心の「大きな変化」(アルマ5:12モーサヤ5:2アルマ5:13-14参照) を経験する,つまり自分が何者であり,いちばん望んでいるものは何かを思い出す機会となることを証します。戒めを守るという聖約を新たにするとき,天の御父のみもとへ戻るよう導いてくださる聖霊を伴侶とすることができます。このため,わたしたちが「パンと〔水〕を頂くためにしばしば集ま〔り〕」(モロナイ6:6),また霊の糧となるよう聖餐を受ける(モロナイ4:3教義と聖約20:77参照) よう命じられているのは当然のことなのです。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:22
弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。


「あなたがたの行うことを神聖にしなさい」2002年4月、ニール・A・マックスウェル長老、十二使徒定員会
神聖にすることについて思いを巡らし、探求を続けるならば、無理からぬことですが、求められるかもしれない事柄を考えて内なる心が震えます。しかし、主は次のような慰めの言葉を授けてくださっています。「わたしの恵み〔は〕あなたがたに対して十分であ〔る。〕」(教義と聖約17:8) わたしたちは心から主を信じているでしょうか。主はまた、弱さを強さに変えると約束してくださいました(エテル12:27参照)。わたしたちはほんとうに進んでその変化に身をゆだねているでしょうか。完全を求めるのであれば、主に対してもすべてをささげる必要があります。

わたしたちの意志がますます御父の御心にのみ込まれてしまうということは、実はわたしたち自身が高められ、広げられ、「〔神〕が持っておられるすべてを受ける力が増すことなのです」(教義と聖約84:38)。さらに言えば、わたしたちの意志がもっと主の御心と似たものにならずに、主から「すべて」を託されることが可能でしょうか。また、すべてをささげていない者が主の「すべて」の意味を正しく理解できるでしょうか。

率直に申し上げて、何であってもすべてをささげないとき、わたしたちは自らの可能性を裏切ることになります。したがって、「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と尋ねる必要はないのです(マタイ26:22)。それよりも、わたしたち個人のつまずきの石について、「主よ、これですか」と尋ねましょう。わたしたちは以前から答えを知っていて、主の御言葉よりも自分自身の決意が必要なのかもしれません。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ26:6-9
さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。


「わたしたちは皆,物乞いではないだろうか」2014年10月、ジェフリー・R・ホランド長老、十二使徒定員会
この世の不公平に対処するという途方もない試練を目の前にして,一人の個人に何ができるでしょうか。主御自身がその答えを与えておられます。裏切りと十字架上の死の前に,マリヤがイエスの頭に非常に高価な香油を注ぎかけました。イスカリオテのユダはその浪費に抗議し,彼女を「きびしくとがめ」ました。(マルコ14:3-5参照。マタイ26:6-9ヨハネ12:3-5も参照)

「イエスは言われた,

『……なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。……

この女はできる限りの事をしたのだ。』」(マルコ14:6,8)

彼女はできる限りのことをしたのです! 何と簡潔な方法でしょう! かつて,あるジャーナリストが,カルカッタで貧しい人々を助けていたマザーテレサに問いかけました。「統計的に見ると,あなたは何も成し遂げていませんね。」この小柄な驚くべき女性はこう答えました。「わたしの仕事は統計ではなく,愛なのです。」自分の手の及ばない人は大勢いるが,自分の手の及ぶ人に対してできることを行うならば,神と隣人を愛するという戒めを守ることができると,彼女は言いました。また,別の折にこう言いました。「わたしたちがしていることは大海の一滴にすぎませんが,それをしなければ,大海はその一滴を失うことになるのです。」(Mother Teresa of Calcutta, My Life for the Poor,ホセ・ルイス・ゴンザレス・バラード,ジャネット・N・プレイフット共編(1985年),20) そのジャーナリストは目が覚めた思いで,キリスト教の精神は統計とはまったく無関係であると結論づけました。悔い改めを必要としない99人のためよりも,悔い改めをした一人の罪人のために,天において大きな喜びがあるとするならば,神が数字そのものにそれほど興味を持たれないのは明らかであると,彼は述べています。(マルコム・ムゲリッジ,Something Beautiful for God(1986年),28–29, 118–119参照。ルカ15:7も参照)

では,わたしたちはどうすれば「できる限りのこと」ができるでしょうか。