マタイ26:17-28
さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
「本心に立ち返る:聖餐,神殿,奉仕による犠牲」2012年4月、ロバート・D・ヘイルズ長老
わたしたちはよく祈って聖約を守るとき,改心し,霊的に自立します。聖約を守るとはすなわち,ふさわしく聖餐を受け,神殿推薦状を持つにふさわしくあり,人々に奉仕するために犠牲を払うのです。
ふさわしく聖餐を受けるために,バプテスマのとき交わした聖約を新たにしていることを思い起こします。聖餐を毎週霊的に清める機会とするには,聖餐会に出席する前に備える必要があります。日常の仕事や娯楽を意識して離れ,この世的な思いや関心を捨てて,思いと心に聖霊を受けるゆとりを作るのです。
このようにして贖罪について深く考える備えをします。救い主の苦しみや死という事実についてただ思いを致すこと以上に,深く考えることで,救い主の犠牲を通してまさしく心からの変化を生活にもたらす希望,機会,力を得ることに気づきます。
聖餐の賛美歌を歌い,聖餐の祈りに参加して,主の肉と血の記念を受ける間,自分の罪や欠点について祈りの気持ちで赦しを求めます。前の週に交わし,そして守ってきた約束を思い起こし,次の週も救い主に従うために明確で個人的な決意をするのです。
親と指導者の皆さん,皆さんは青少年に,生活における贖罪の関連性について学び,話し合い,理解する特別な機会を設けることで,青少年が聖餐のたぐいまれな祝福を味わうのを助けることができます。自ら聖文を調べ,自分の経験から互いに教え合うよう彼らを導いてください。
父親,神権指導者,定員会会長会の皆さんには,アロン神権者が聖餐の神聖な務めを果たすため真剣に準備するよう助ける特別な責任があります。週の間中,福音の標準に添った生活をすることがこの準備となります。ふさわしく敬虔に聖餐を準備し,祝福し,配るときに,彼らは文字どおり,最後の晩餐(マタイ26:17-28;ルカ22:1-20参照) における救い主の模範に従い,主のようになるのです。
聖餐は本心に立ち返り,心の「大きな変化」(アルマ5:12。モーサヤ5:2;アルマ5:13-14参照) を経験する,つまり自分が何者であり,いちばん望んでいるものは何かを思い出す機会となることを証します。戒めを守るという聖約を新たにするとき,天の御父のみもとへ戻るよう導いてくださる聖霊を伴侶とすることができます。このため,わたしたちが「パンと〔水〕を頂くためにしばしば集ま〔り〕」(モロナイ6:6),また霊の糧となるよう聖餐を受ける(モロナイ4:3;教義と聖約20:77参照) よう命じられているのは当然のことなのです。
