マタイ26:38
そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
「わたしと一緒に目をさましていなさい」2001年4月、ヘンリー・B・アイリング長老、十二使徒定員会
救い主が裏切りや十字架の苦しみに先立ち、激しい苦痛を受けるためにゲツセマネの園へ行かれたとき、主は一人で行くこともおできになったはずです。しかし御自分の神権を持つ僕を連れて行かれました。マタイは次のように説明しています。「そのとき、彼らに言われた、『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい。』」(マタイ26:38)
救い主は力を求めて天父に祈られました。そして苦しみのさなか、ペテロのもとに戻り、ともに見守るべきすべての者にとって必要な事柄をお教えになりました。「それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、『あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。』」(マタイ26:40-41)
主とその牧者とのこの簡潔な会話の中に、慰めと警告が含まれています。主はわたしたちと一緒に見守っておられます。主はすべての事柄を理解し、果てしない愛をもって、決して眠ることなくわたしたちと一緒に見守っておられるのです。主は羊がその都度必要としているものを御存じです。聖霊の力により、主はわたしたちにそれを告げ、彼らのもとにわたしたちを送られるのです。そしてわたしたちは神権により、主の力を招き、彼らを祝福するのです。
しかし主のペテロへの警告は、わたしたちへの警告でもあります。羊を殺してしまうおおかみは、間違いなく牧者をも攻撃します。ですからほかの人のことだけでなく、自らのことにも注意を払わなくてはなりません。牧者も罪の淵まで近づくよう誘惑を受けます。しかしいかなる罪も聖霊の導きの妨げとなるものです。そのような妨げとなる行いや場所は絶対避けるべきです。そのような危険を冒す余裕などありません。皆さんが罪に陥るならば、皆さんは自分自身の罪のみに責任を負うのではありません。もし皆さんがふさわしさを保ち、御霊のささやきに聞き従っていたのであれば、悲しむ必要のなかったほかの人々の悲しみに対しても責任を負うのです。牧者は、御霊の声を聞くことができ、天の力を行使することができなくてはなりません。さもなければつまずいてしまいます。
