マタイ26:37,39
そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。 …… そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
「わたしの愛のうちにいなさい」2016年10月、D・トッド・クリストファーソン長老、十二使徒定員会
神の貴い愛の代価について考えてみましょう。わたしたちの罪を贖い,わたしたちを死から贖うために,肉体的にも霊的にも苦しまれたイエスは,その苦しみをこのように明かしておられます。「神であって,しかもすべての中で最も大いなる者であるわたし自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から血を流し,体と霊の両方に苦しみを受けたほどのものであった。そしてわたしは,その苦い杯を飲まずに身を引くことができればそうしたいと思った。」(教義と聖約19:18) ゲツセマネと十字架上での苦しみは,死すべき人にとっては耐えようのないものでした。(モーサヤ3:7参照) にもかかわらず,主は御父とわたしたちへの愛のゆえに,堪え忍ばれ,結果的に,不死不滅と永遠の命をわたしたちにもたらすことができるようになりました。
「あらゆる毛穴から血が流れ出る」という言葉は,きわめて象徴的です。(モーサヤ3:7) イエスは,オリーブ搾りの地,ゲツセマネで苦しまれたからです。救い主の時代には,オリーブ油を生産するのに,まずオリーブの上に大きな石を転がして潰しました。その「すり潰されたオリーブ」を,ゆるく編んだ柔らかい籠に入れ,その籠を積み重ねました。その重みで一番搾りの最も上質な油が搾り出されます。次に,積み重ねた籠の上に大きな梁や丸太を乗せて圧力をかけ,さらに多くの油を生産しました。最後に,文字どおり最後の一滴まで搾り取るために,梁の片方の端を石で重くして,最大限の圧力を加えました。(リチャード・ナイツェル・ホルツアップフェル他共著,Jesus Christ and the World of the New Testament (2006年),18;リチャード・ナイツェル・ホルツアップフェル他共著,Jehovah and the World of the Old Testament(2009年),281参照) ちなみに,最初に流れ出る油は血の色をしています。
あの運命の夜,ゲツセマネに足を踏み入れた救い主に関するマタイの記録を思い出します。主は「悲しみを催しまた悩みはじめられた。……
そして少し進んで行き,うつぶしになり,祈って言われた,『わが父よ,もしできることでしたらどうか,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし,わたしの思いのままにではなく,みこころのままになさって下さい』。」(マタイ26:37,39)
それから,その苦痛はさらに激しさを増したと思われ,主はもう一度苦痛からの解放を嘆願されます。最後に,恐らく苦しみの極みのときに,さらにもう一度嘆願されました。正義が最後の一滴まで満たされるように,主は,その激しい苦痛を堪え忍ばれたのです。(教義と聖約19:19参照) それは皆さんやわたしを贖うためでした。
神の愛は何と貴い賜物でしょう!その愛で満たされたイエスは,次のように問いかけておられます。「わたしがあなたがたを癒すことができるように,今あなたがたはわたしに立ち返り,自分の罪を悔い改め,心を改めようとしているか。」(3ニーファイ9:13) また,やさしく力づけておられます。「見よ,わたしの憐れみの腕はあなたがたに向けて伸べられている。わたしは来る者をだれでも受け入れよう。わたしのもとに来る者は幸いである。」(3ニーファイ9:14)
皆さんは,まず自分を愛してくださった御方を愛するのではないでしょうか。(1ヨハネ4:19参照) それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ14:15参照) 皆さんは,友のために御自分の命を捨てられた御方の友となるのではないでしょうか。(ヨハネ15:13参照) それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ15:14参照) 皆さんは,その御方の愛のうちにとどまり,思いやりをもって与えてくださるすべてを受け取るのではないでしょうか。それなら,その御方の戒めを守ってください。(ヨハネ15:10参照) わたしたちが主の愛を感じ,十分に主の愛のうちにいられますよう,イエス・キリストの御名によって祈ります,アーメン
