「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -369ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


「だれも主とともにいなかった」2009年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
さて,贖いへの孤独な旅で最も困難だったと思われる瞬間について,これから非常に慎重に,また敬虔に話します。それは,イエスが知識面と物理面では準備ができていても,感情面と精神面においては応じる用意が完全にはできていなかったと思われる最後の瞬間,すなわち,神が離れて行かれるという恐るべき絶望に身をゆだねることです。このとき,イエスは極限の孤独にあって叫ばれました。「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」マタイ27:46

イエスは世の人から見捨てられることは予期しておられましたが,神が離れて行かれることは悟っておられなかったと思われます。そうでなければ,弟子たちに次のように言われることはなかったでしょう。「見よ,あなたがたは散らされて,それぞれ自分の家に帰り,わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。……しかし,わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない。」ヨハネ16:328:29

わたしは自らの確信に基づいて,イエスが完全に御父の御心にかなっておられたこと,完全な御方である御父はその瞬間に御子をお見捨てにはならなかったことを証します。実際,わたしは,キリストが地上で教え導かれた間を通じて,恐らくこの最後の苦悩のときほど,御父が御子の近くにおられたことはなかったと信じています。それでも,御子の至高の犠牲は,それが自発的であればあるほど,また孤独であればあるほど完全なものになるという理由から,御父は短い間,御父の霊がもたらす安らぎと,御父御自身の存在による支えをイエスから取り去られたのです。それは贖いが要求するものであり,確かに贖いの意義に欠かせないものでした。つまり,悪口を言ったことがなく,過ちを犯したことがなく,汚れたものに触れたことのないこの完全な御子は,人類,すなわちわたしたち全員がこれらの罪を犯したときにどのように感じるかをお知りにならなければならなかったのです。無限にして永遠の贖罪を成し遂げるために,イエスは肉体だけでなく霊が死ぬということがどのようなものかを実感し,神の霊が退き,独り残されてこれ以上ないほどの悲惨極まる,絶望的な孤独を感じることがどのようなことかを御自身で理解される必要がありました。

しかし,イエスは堪え忍び,使命を果たし続けられました。極限の苦悩の中にあっても,御自身に備わる至善のために,勝利への信仰を持ち続けられたのです。御子は信仰に頼っておられました。御子が味わっておられた気持ちにもかかわらず,その信仰は,神の哀れみは決して消えず,神は常に誠実であられ,わたしたちのもとを去ったり,見捨てたりなさることはないということを御子に告げていました。そして最後の1コドラントが支払われ,忠実であるというキリストの決意がまったく揺るぎのないものであることが証明されたとき,ついに,安堵とともに苦しみが「終った」のです。ヨハネ19:30参照)あらゆる困難に立ち向かい,助ける者も支える者もなしに,生ける神の生ける御子ナザレのイエスは,死が支配していた肉体の命を回復し,罪と地獄の暗闇と絶望から,喜びあふれる霊の贖いをもたらされました。神を信じ,神が支えてくださると知っておられたイエスは,勝利のうちに「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」ルカ23:46と言うことがおできになったのです。

兄弟姉妹,この復活祭の季節に得られる大きな慰めの一つは,イエスがただ御独りでそのような長く孤独な道を歩まれたおかげで,わたしたちはそうする必要がないということです。イエスの孤独な旅は,その縮小版であるわたしたちの旅路に大いなる同伴者,すなわち天の御父の憐れみ深い御手,常に近くにいてくださる愛子,聖霊の大いなる賜物,天使たち,幕の両側にいる家族,預言者と使徒,教師,指導者,友人を与えてくれました。イエス・キリストの贖いと主の福音の回復により,これらだけでなく,さらに多くの同伴者がこの世の旅路をともに歩んでくれるのです。カルバリでの出来事のおかげで,たとえ孤独を感じることがあっても,決して独りではなく,助けの手が差し伸べられるという真理をわたしたちは知っています。全人類の贖い主は確かに,わたしたちを慰めのないままにせず,御父とともに来て,わたしたちとともにいてくださると言われたのです。ヨハネ14:18,23参照)

復活祭の時期に当たり,わたしにはもう一つの願いがあります。それは,拒絶され,見捨てられ,少なくとも一度はまったく裏切られたキリストの孤独な犠牲が,わたしたちのせいで,再び繰り返されることが決してあってはならないということです。主は一度,御独りで歩かれました。わたしたちが助けたり支えたりすることもないままに,主が二度と罪と向き合われることのないようにしましょう。現代における主の「悲しみの道」にいる皆さんやわたしを主が御覧になるとき,そこにいるのは何もしない傍観者だったということがもう決してないようにしてください。過ぎ越しの子羊に象徴される過ぎ越しの木曜日,十字架に象徴される贖いの金曜日,そして空になった墓に象徴される復活の日曜日を迎えるこの聖なる週を控え,わたしたちは言葉だけでなく,また人生が順調なときだけでなく,行いにおいて,勇気において,信仰において主イエス・キリストの忠実な弟子であると心から公言できますように。孤独を覚えながら道を歩むときも,十字架が肩に重くのしかかるときにもそうできますように。この復活祭の週の間,そして常に「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも」モーサヤ18:9キリストのそばに立つことができますように。わたしたちのために死なれたとき,そして究極の完全な孤独に置かれたとき,キリストはわたしたちのそばに立っておられたのです。イエス・キリストの御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。


「世が与えるようなものとは異なる」2021年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
そうした助けや希望はほんとうに必要です。なぜなら,今日のこの世界規模のオンライン大会の会衆の中には,何らかの問題,すなわち,身体的,情緒的,社会的,経済的,あるいはそのほかの多くの問題を抱えて苦しんでいる人々がいるからです。しかし,これらの問題の多くについて,わたしたちは自分たちで十分に対処できるほど強くはありません。わたしたちに必要な助けや平安は,「世が与える」ヨハネ14:27ようなものではないからです。そうではなく,真に難しい問題に関して,わたしたちには聖文が言うところの「天の力」教義と聖約121:36が必要であり,この力を利用するためには,聖文の同じ箇所に記されている「義の原則」教義と聖約121:36によって生活しなければなりません。この原則と力のつながりを理解することは,人類家族が決して学ぶことができないように思える一つの教訓であると,天地の神は言っておられます。教義と聖約121:35参照)

では義の原則とは何でしょうか。義の原則は聖典の中に繰り返し列挙され,今回のような大会で何度も何度も教えられています。そしてこの神権時代においては,預言者ジョセフ・スミスが「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とジョセフ自身が叫び求めた際のこたえとして教義と聖約121:1-6参照。マタイ27:46も参照),主から教えられたものです。リバティーの監獄の寒々とした無慈悲な監禁の中で,ジョセフ・スミスは,忍耐,寛容,温厚,偽りのない愛などの徳を含む義の原則について教えを受けました。教義と聖約121:41-42 参照)これらの原則がなければ,やがて不和と憎しみに直面することは確実です。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ27:40
言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。



「見よ,わたしは奇跡の神である」2021年4月、ロナルド・A・ラズバンド、十二使徒定員会
わたしたちは,愛する人を癒す奇跡や,不当な行為を覆す奇跡,冷酷な人や失望している人の心を穏やかにする奇跡を願うことが時々あります。わたしたちはこの世の目で物事を見て,主が介在して壊れているものを元に戻してくださるようにと願います。信仰によって奇跡が起こりますが,必ずしも,わたしたちの予定表通りであったり,望む方法によってではありません。それは,わたしたちが忠実ではない,あるいは主の介在に値しないということなのでしょうか。いいえ。わたしたちは主から愛されています。主はわたしたちのために御自分の命をささげ,主の贖罪は,わたしたちが悔い改めて主に近づくときに,わたしたちを重荷と罪から解放し続けてくれます。

主は,「わが道は,あなたがたの道とは異なっている」イザヤ55:8ということを思い起こさせ,またこう述べておられます。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」マタイ11:28それは不安,失望,恐れ,不従順,愛する人についての心配,失った夢あるいは破れた夢からの休息です。混乱や悲しみの中の平安は奇跡です。主の次の御言葉を思い出してください。「わたしはこの件についてあなたの心に平安を告げなかったであろうか。神からの証よりも大いなる証があるであろうか。」教義と聖約6:23奇跡は,大いなるエホバ,至高者の御子であるイエス・キリストが平安をもってこたえてくださっているということです。

主は,園でマリヤに現れて彼女の名を呼ばれたように,信仰を働かせるようわたしたちに呼びかけておられます。マリヤは,主に仕え,主のお世話をしようとしていました。主の復活は彼女が期待していたものではありませんでしたが,それは偉大な幸福の計画によるものでした。

「十字架からおりてこい」マタイ27:40と,主を信じない群衆はカルバリで主をあざけりました。主はそのような奇跡を行うことがおできになったでしょう。しかし,主は,初めから終わりを御存じであり,御父の計画に忠実でありたいと思われました。その模範をわたしたちは理解しなければなりません。

試練のただ中にいるわたしたちに主はこう告げておられます。「わたしのわきを突き刺した傷跡と,わたしの手と足にある釘の跡を見なさい。 忠実​で​あり,わたし​の​戒め​を​守り​なさい。そう​すれ​ば,あなたがた​は​天​の​王国​を​受け継ぐ​で​あろう。」教義と聖約6:37それは,兄弟姉妹,わたしたち全員に約束されている奇跡です。