「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -368ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ28:18
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。 


「わたしたちと神との関係」2022年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
神は間違いなく,わたしたち一人一人への御自身の聖約と約束を守ってくださいます。この点を心配するには及びません。教義と聖約82:10参照)万物の下に身を落とし,その後高い所に昇られ,教義と聖約88:6参照)天においても地においても一切の権威をお持ちになったマタイ28:18参照)イエス・キリストの贖いの力があるので,神は御自分の約束を果たすことができ,約束を果たされるのです。主の律法を尊び,律法に従うことは必要不可欠ですが,律法に従うことに基づくあらゆる祝福が,わたしたちの期待どおりに生じ,形成され,予定されるわけではありません。教義と聖約130:20-21参照)わたしたちは最善を尽くしますが,祝福の扱いについては,この世的なものも霊的なものも神にお任せしなければなりません。

……

大切なのは,わたしたちの悔い改めであり,従順であり,奉仕であり,犠牲なのです。わたしたちは,エテルが述べた「いつも多くの善い行いを」エテル12:4する人々の仲間でありたいと思います。しかし,善い行いは,日の栄えの帳簿に記される勘定記録のようなものではありません。善い行いが重要である理由は,それによってわたしたちが神の業に携わり,神との協力関係の中で生まれながらの人から聖徒に生まれ変わる手段だからです。モーサヤ3:19「主の望まれる者となるというチャレンジ」2000年10月)天の御父がわたしたちに用意しておられるのが,御父御自身と御子です。すなわち,わたしたちの贖い主であられるイエス・キリストの恵みと仲立ちによってもたらされる,緊密でいつまでも続く,御二方との関係です。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヨハネ19:10
そこでピラトは言った、「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのか」。イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。



「贖罪」(英文)、1988年4月、ボイド・K・パッカー、十二使徒定員会
あざけりと虐待とむち打ち, そして十字架での最後の苦痛のさ中,主は沈黙を守リ,その身をなすがままにされました。

しかし,この凝縮されたドラマの中にキリスト教の教義の真槌を示すひとつの例外があります。

それは裁判の場でのことでした。恐れを抱いたピラトはイエスにこう語ります。

「何も答えないのか。わたしには, あなたを許す権威があり, また十字架につける権威があることを,知らないのか。」ヨハネ19:10)

次の主の言葉には,物静かな中にも主の偉大な姿を見る思いです。「あなたは,上から賜わるのでなければ,わたしに対してなんの権威もない。」ヨハネ19:11)

その後の出来事は, ピラトにそれを左右する力があったからではなく,主にそれを受け入れる意志がおありになったから起こったのです。イエスはこう言われました。

「わたしが……命を捨てるのは,それを再び得るためである。

だれかが,わたしからそれを取り去るのではない。わたしが, 自分からそれを捨てるのである。わたしには,それを捨てる力があり, またそれを受ける力もある。」ヨハネ10:17-18

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

マタイ27:48
するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。


「ああ、聖なる贖い主」(英文)1981年10月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
人生の思いもかけない皮肉ななりゆきについて, 私たちは主に何を教えることができるでしょうか。主が亡くなられた時, 残された, たった1枚の着物さえくじで分けられました。マタイ27:35参照)しかし主にとって, この地球は足台だったのです。主は人類が再び渇くことのないように, 生ける水を与えて下さいました。それなのに, 十字架の上で主に差し出されたのは, 酢いぶどう酒でした。(ヨハネ4:10-19マタイ27:48参照)

……

何ひとつとして私たちが主に教えることはありません。しかし, 私たちは主のみ言葉に耳を傾け, 主を愛し, 敬い, 礼拝することはできます。主の戒めを守り, 聖典に親しむことができます。そうです, 主を忘れてみこころに背きやすい私たちではありますが, 決して主から忘れられることはないのです。私たちは主の「業」であり主の「栄光」です。主は決して私たちを迷わせたりされません。(モーセ1:39参照)

ですから, 私は主を讃美し, 主のみ業をたたえます。主の栄光を表わすにはあまりにも拙い言葉ではありますが, この時満ちたる時代に特に召された主の証人として,主のみ業が完きものであることを証します。