マタイ27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
「だれも主とともにいなかった」2009年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
さて,贖いへの孤独な旅で最も困難だったと思われる瞬間について,これから非常に慎重に,また敬虔に話します。それは,イエスが知識面と物理面では準備ができていても,感情面と精神面においては応じる用意が完全にはできていなかったと思われる最後の瞬間,すなわち,神が離れて行かれるという恐るべき絶望に身をゆだねることです。このとき,イエスは極限の孤独にあって叫ばれました。「わが神,わが神,どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)
イエスは世の人から見捨てられることは予期しておられましたが,神が離れて行かれることは悟っておられなかったと思われます。そうでなければ,弟子たちに次のように言われることはなかったでしょう。「見よ,あなたがたは散らされて,それぞれ自分の家に帰り,わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。……しかし,わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。」「わたしは,いつも神のみこころにかなうことをしているから,わたしをひとり置きざりになさることはない。」(ヨハネ16:32;8:29)
わたしは自らの確信に基づいて,イエスが完全に御父の御心にかなっておられたこと,完全な御方である御父はその瞬間に御子をお見捨てにはならなかったことを証します。実際,わたしは,キリストが地上で教え導かれた間を通じて,恐らくこの最後の苦悩のときほど,御父が御子の近くにおられたことはなかったと信じています。それでも,御子の至高の犠牲は,それが自発的であればあるほど,また孤独であればあるほど完全なものになるという理由から,御父は短い間,御父の霊がもたらす安らぎと,御父御自身の存在による支えをイエスから取り去られたのです。それは贖いが要求するものであり,確かに贖いの意義に欠かせないものでした。つまり,悪口を言ったことがなく,過ちを犯したことがなく,汚れたものに触れたことのないこの完全な御子は,人類,すなわちわたしたち全員がこれらの罪を犯したときにどのように感じるかをお知りにならなければならなかったのです。無限にして永遠の贖罪を成し遂げるために,イエスは肉体だけでなく霊が死ぬということがどのようなものかを実感し,神の霊が退き,独り残されてこれ以上ないほどの悲惨極まる,絶望的な孤独を感じることがどのようなことかを御自身で理解される必要がありました。
しかし,イエスは堪え忍び,使命を果たし続けられました。極限の苦悩の中にあっても,御自身に備わる至善のために,勝利への信仰を持ち続けられたのです。御子は信仰に頼っておられました。御子が味わっておられた気持ちにもかかわらず,その信仰は,神の哀れみは決して消えず,神は常に誠実であられ,わたしたちのもとを去ったり,見捨てたりなさることはないということを御子に告げていました。そして最後の1コドラントが支払われ,忠実であるというキリストの決意がまったく揺るぎのないものであることが証明されたとき,ついに,安堵とともに苦しみが「終った」のです。(ヨハネ19:30参照)あらゆる困難に立ち向かい,助ける者も支える者もなしに,生ける神の生ける御子ナザレのイエスは,死が支配していた肉体の命を回復し,罪と地獄の暗闇と絶望から,喜びあふれる霊の贖いをもたらされました。神を信じ,神が支えてくださると知っておられたイエスは,勝利のうちに「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23:46)と言うことがおできになったのです。
兄弟姉妹,この復活祭の季節に得られる大きな慰めの一つは,イエスがただ御独りでそのような長く孤独な道を歩まれたおかげで,わたしたちはそうする必要がないということです。イエスの孤独な旅は,その縮小版であるわたしたちの旅路に大いなる同伴者,すなわち天の御父の憐れみ深い御手,常に近くにいてくださる愛子,聖霊の大いなる賜物,天使たち,幕の両側にいる家族,預言者と使徒,教師,指導者,友人を与えてくれました。イエス・キリストの贖いと主の福音の回復により,これらだけでなく,さらに多くの同伴者がこの世の旅路をともに歩んでくれるのです。カルバリでの出来事のおかげで,たとえ孤独を感じることがあっても,決して独りではなく,助けの手が差し伸べられるという真理をわたしたちは知っています。全人類の贖い主は確かに,わたしたちを慰めのないままにせず,御父とともに来て,わたしたちとともにいてくださると言われたのです。(ヨハネ14:18,23参照)
復活祭の時期に当たり,わたしにはもう一つの願いがあります。それは,拒絶され,見捨てられ,少なくとも一度はまったく裏切られたキリストの孤独な犠牲が,わたしたちのせいで,再び繰り返されることが決してあってはならないということです。主は一度,御独りで歩かれました。わたしたちが助けたり支えたりすることもないままに,主が二度と罪と向き合われることのないようにしましょう。現代における主の「悲しみの道」にいる皆さんやわたしを主が御覧になるとき,そこにいるのは何もしない傍観者だったということがもう決してないようにしてください。過ぎ越しの子羊に象徴される過ぎ越しの木曜日,十字架に象徴される贖いの金曜日,そして空になった墓に象徴される復活の日曜日を迎えるこの聖なる週を控え,わたしたちは言葉だけでなく,また人生が順調なときだけでなく,行いにおいて,勇気において,信仰において主イエス・キリストの忠実な弟子であると心から公言できますように。孤独を覚えながら道を歩むときも,十字架が肩に重くのしかかるときにもそうできますように。この復活祭の週の間,そして常に「いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,死に至るまでも」(モーサヤ18:9)キリストのそばに立つことができますように。わたしたちのために死なれたとき,そして究極の完全な孤独に置かれたとき,キリストはわたしたちのそばに立っておられたのです。イエス・キリストの御名により,アーメン
