「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -361ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝8:31
彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。


「永遠の家庭」2000年4月、トーマス・S・モンソン、大管長会
イエスについてこのような記述があります。「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。」ルカ2:52皆さんは主と同じように成長を遂げようと決意しているでしょうか。聖文の一節には、わたしたちの主である救い主を称賛して、次のように記されています。「イエスは、……よい働きをしながら、……巡回されました。」使徒10:38

パウロは愛するテモテにあてた手紙の中で、わたしたちが自分自身を向上させるための方法を明らかにすると同時に、静かに熟考した後、「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」使徒8:31 と声に出して問いかける人々に対して援助の手を差し伸べています。

パウロがテモテに与えた答えは、わたしたち一人一人が持つ厳粛な責任を示唆しています。パウロの知恵にあふれる勧告を注意深く読んでみましょう。「言葉にも、会話にも、愛にも、霊にも、信仰にも、純潔にも、信者の模範となりなさい。」1テモテ4:12

まさにわたしたちのために与えられたこの霊感あふれる教えを、よく味わってみましょう。

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝8:30-31,35
そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。 彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。……そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。


「どうして理解できるでしょうか」2019年4月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
使徒行伝に記録されているように,伝道者ピリポは,エチオピヤの女王の財宝のすべてを管理していた,エチオピヤ人の宦官に福音を教えました。使徒8:27参照)その宦官はエルサレムでの礼拝から帰る途中でイザヤの書を読んでいました。ピリポは,御霊に促されて彼に近づくと,こう言いました。「あなたは,読んでいることが,おわかりですか。」

「〔宦官〕は『だれかが,手びきをしてくれなければ,どうしてわかりましょう』と答え〔まし〕た。……

そこでピリポは口を開き,この聖句から説き起して,イエスのことを宣べ伝え〔まし〕た。」使徒8:30-31,35

このエチオピヤ人の問いかけは,わたしたちは皆,イエス・キリストの福音を互いに学び合い,教え合うように努めなければならないという神の指示を思い出させます。教義と聖約88:77-78,118130:18-19131:6参照) 事実,福音を学び,教えるという観点から,時にわたしたちはそのエチオピヤ人のようです—忠実な,霊感を受けた教師の助けが必要です。また,時にはピリポのようです—改心の過程にある人々を教え,強める必要があります。

イエス・キリストの福音を学び,教えようと努めるときのわたしたちの目的は,神とその神聖な幸福の計画,イエス・キリストとその贖いの犠牲を信じる信仰を増すことと,永続する改心をすることであるべきです。このように信仰が増し,改心が深まると,それは神と聖約を交わして守る助けとなり,その結果としてイエスに従いたいという望みが増し,真の霊的な変化がもたらされます。言い換えれば,コリント人への手紙の中で使徒パウロが教えているように,わたしたちは「新しく造られた者」になるのです。2コリント5:17参照)この変化によって,わたしたちは,より幸せな,実り多い,健全な生活を送るようになり,永遠の観点からものを見続けられるようになります。このことが,エチオピヤ人の宦官に,救い主について学び,福音に改心した後に実際に起こったのではないでしょうか。聖典には,「宦官はよろこびながら旅をつづけた」とあります。使徒8:39

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝8:6-7
群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。 汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。



「主は重荷を負っている人を癒される」2006年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
救い主はわたしたちの苦悩を御存じです。救い主は,わたしたちのためにおられるのです。主は,自らたとえで教えられた良いサマリヤ人びとのように,わたしたちが道端で傷を負っているときに,傷の手当てをし,世話をしてくださいますルカ10:34参照)。兄弟姉妹の皆さん,主の贖いの癒しの力は,皆さんのため,わたしたちのため,すべての人のためにあるのです。

贖いの包括的な力については,賛美歌「主よ,嵐すさび」の霊感あふれる歌詞の中によく表れています。

われはうなだれて 悲しみ深し主よ,
われは祈るを 救いたまえや
罪の流れにて 溺おぼれ死ぬを
急ぎてこの流れを主よ, とどめたまえ
(『賛美歌』59番)

わたしたちは,メルキゼデク神権の権能を通して癒されます。イエスは使徒たちに「あらゆる病気,あらゆるわずらいをいやす」権能をお授けになりましたマタイ10:1マルコ3:15ルカ9:1-2も参照)。使徒たちは出て行って「いたる所で福音を宣べ伝え,また病気をいやした。」ルカ9:6マルコ6:13使徒5:16も参照)七十人たちも同様に権能と指示を受けて,出て行き,病人を癒したのでしたルカ10:9使徒8:6-7参照)

……

癒しの祝福は様々な形でもたらされます。わたしたちのことを最も深く愛しておられる御方が御存じのままに,それぞれの必要に合わせてもたらされるのです。ときに,「癒し」は病気を治し,重荷を軽くしてくれます。しかし,ときには,託された重荷に耐えられるだけの力や理解力,忍耐力が与えられることによって「癒される」こともあります。