使徒行伝8:6-7
群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、こぞって彼の語ることに耳を傾けた。 汚れた霊につかれた多くの人々からは、その霊が大声でわめきながら出て行くし、また、多くの中風をわずらっている者や、足のきかない者がいやされたからである。
「主は重荷を負っている人を癒される」2006年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
救い主はわたしたちの苦悩を御存じです。救い主は,わたしたちのためにおられるのです。主は,自らたとえで教えられた良いサマリヤ人びとのように,わたしたちが道端で傷を負っているときに,傷の手当てをし,世話をしてくださいます(ルカ10:34参照)。兄弟姉妹の皆さん,主の贖いの癒しの力は,皆さんのため,わたしたちのため,すべての人のためにあるのです。
贖いの包括的な力については,賛美歌「主よ,嵐すさび」の霊感あふれる歌詞の中によく表れています。
われはうなだれて 悲しみ深し主よ,
われは祈るを 救いたまえや
罪の流れにて 溺おぼれ死ぬを
急ぎてこの流れを主よ, とどめたまえ
(『賛美歌』59番)
わたしたちは,メルキゼデク神権の権能を通して癒されます。イエスは使徒たちに「あらゆる病気,あらゆるわずらいをいやす」権能をお授けになりました(マタイ10:1。マルコ3:15;ルカ9:1-2も参照)。使徒たちは出て行って「いたる所で福音を宣べ伝え,また病気をいやした。」(ルカ9:6。マルコ6:13;使徒5:16も参照)七十人たちも同様に権能と指示を受けて,出て行き,病人を癒したのでした(ルカ10:9;使徒8:6-7参照)。
……
癒しの祝福は様々な形でもたらされます。わたしたちのことを最も深く愛しておられる御方が御存じのままに,それぞれの必要に合わせてもたらされるのです。ときに,「癒し」は病気を治し,重荷を軽くしてくれます。しかし,ときには,託された重荷に耐えられるだけの力や理解力,忍耐力が与えられることによって「癒される」こともあります。