「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -354ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝24:15
また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。


「贖い――最も大いなる希望」2001年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
贖いと復活により、多くのことが成し遂げられました。贖いは悔い改めを条件として、わたしたちを罪から清めてくれます。悔い改めは、憐れみを受けるための条件です。アルマ42:22-25参照)最後の1コドラントを払うためにわたしたちができるすべてのことを行い、過ちを正した後に、わたしたちを清めて完全にする贖いを通して、生活の中で救い主の恵みにあずかることができるのです。2ニーファイ25:23アルマ34:15-1642:22-24モロナイ10:32-33参照) キリストの復活は、死を克服し、わたしたちが死後も墓を超えて生き続ける確証を与えてくれました。キリストはこう言われました。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」ヨハネ11:25 復活は無条件で、かつて生を受けた人とこれから生を受ける人すべてに与えられます。復活は無償の賜物です。使徒24:15参照) ジョン・テーラー大管長はこのことを適切に表現してこう言いました。「墓が開けられ、死者は神の御子の声を聞くでしょう。そして墓から出て来て、善を行った人々は忠実な人の復活を受け、悪を行った人々は、忠実でない人の復活を受けます。」(The Gospel Kingdom, G. ホーマータラム選(1943年)118。ヨハネ5:28-29も参照)

現世での行いと贖いに関して、J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は深い洞察を示してこう言いました。「〔救い主は〕わたしたちの背きに対して最低限の罰をお与えになると思います。わたしは、主がお持ちの無限の愛と祝福、憐れみ、親切な心、そして思いやりのすべてを御自身の正義に込められると信じています。… … それとは逆に、善い行いに対する報いについて言えば、わたしたちが犯した過ちを心に留めながらも主は、可能なかぎり最大の報いをお与えになると信じています。」(As Ye Sow … Brigham Young Universities Speeches of the Year, 1955年5月3日, 7)

イザヤが書いているように、わたしたちが主に立ち返るなら、「主は豊かにゆるしを与えられる」のです。イサヤ5:57

 

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝24:15
また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。


「自分という驚くべき存在」2003年10月、ジェームズ・E・ファウスト、大管長会
亡くなった親族のために救いの儀式を執行するという偉大な業は,教会の使命の持つ3つの側面の中できわめて重要な部分を占めています。この業には,亡くなった先祖を救うという目的かあります。神殿の業はわたしたちと,救いの儀式を待つ亡くなった親族の両方にとって,欠くことのできないものです。「彼らなしにはわたしたちか完全な者とされることはなく,またわたしたちなしには彼らが完全な者とされることはない」からです。教義と聖約128:18先祖は救いの儀式を必要としており,わたしたちは先祖との結び固めを必要としています。だからこそ,一人として救いの機会を逸することのないよう系図を探究するのです。

亡くなった親族の探求は,単なる趣味ではありません。すべての教会員の基本的な責任です。わたしたちは人生が死後も続き,すべての人が復活することを信じています。使徒24:15アルマ11:41-45参照)神の権能の下に聖なる神殿で交わされる特別な聖約を守るならば,来世でも家族関係が続くことを信じています。また亡くなった先祖も,わたしたちが神殿で彼らに代わって聖約を交わすならば,その家族と永遠に結び固められると信じています。亡くなった先祖も,選択の自由を正しく行使するならば,霊界で聖約を受け入れる機会が与えられるのです。(“Why Family History?”参照)




 

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝23:11
その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。


「喜びをもって生きなさい」(英文)1982年10月、二一ル・A・マックスウェル、十二使徒定員会
同じことが別の場合にも言えます。それは投獄されていたパウロに,復活されたイエスが臨まれた夜のことです。イエスはパウロに「しっかりせよ」と言われました。(使徒23:11) この時,パウロはアナニヤの命令により衆人環視の中で口を打たれたばかりでした。40人のユダヤ人が彼を殺そうと陰謀をめぐらし, パウロは扇動行為で裁判にかけられようとしてしていました。また,間もなく難船を経験します。このような時に,どうして元気でいることができるのでしょうか。それは,イエスが言われたように,パウロは悪条件の中にもかかわらず,やがてローマに福音のよきおとずれを伝えることになるからです。

試練や苦難を経験しただけでなく,人の高遠な行く末についても熟知していたヤング大管長は,主が私たちにそうした経験をさせるのは,私たちを神の真の友とするためであると言っています。個々の能力を伸ばし,自由意志を賢明に使い,神を信頼するならば ―たとえ見捨てられて独りになったと感じることがあっても― ヤング大管長が語っているように,私たちは「暗闇の中でも義しく」生きることができます。(Secretary's Journal, 28. Jan.1857) 暗たんたる苦難の中にあっても,私たちの目に入る福音の光は,喜びを得て,光輝く人々から発せられるものです。

人々が絶望する時に喜びをもって生き,人々がつまずく時に信仰を保ち, 見捨てられたと感じる時にも主を信頼するこれらのことはすべて, 私たちを愛するがゆえに与えられる神の思慮深い訓練の結果として深く望まれていることです。(モーサヤ3:19参照) これらの経験を神の冷淡さと誤解してはなりません。こうした訓練は神の計画の一部なのです。