「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -355ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝19:2-6
彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。


「聖霊を受けなさい」2010年10月、デビッド・A・ベドナー、十二使徒定員会
「『あなたがたは,信仰にはいった時に,聖霊を受けたのか』と尋ねたところ,『いいえ,聖霊なるものがあることさえ,聞いたことがありません』と答えた。
『では,だれの名によってバプテスマを受けたのか』と彼がきくと,彼らは『ヨハネの名によるバプテスマを受けました』と答えた。
そこで,パウロが言った,『ヨハネはめのバプテスマを授けたが,それによって,自分のあとに来るかた,すなわちイエスを信じるように,人々に勧めたのである。』
人々はこれを聞いて,主イエスの名によるバプテスマを受けた。
そして,パウロが彼らの上に手をおくと,聖霊が彼らにくだ〔った。〕」使徒19:2-6

「水に沈められるバプテスマは,福音の最初の儀式であり,……この儀式の後に聖霊の賜物を受けることによって,バプテスマは完全なものとなる。」(『聖句ガイド』「バプテスマ」の項,208)預言者ジョセフ・スミスは次のように説明しています。「バプテスマは,聖霊を受けるのに備える神聖な儀式です。聖霊を授かるための経路であり,です。按手による聖霊の賜物は,義の原則以外のどのような原則によっても受けることはできません。」(『教え――ジョセフ・スミス』,96)

教会の新しい会員を確認し,聖霊の賜物を授ける儀式は,簡素でありながらも深遠です。ふさわしいメルキゼデク神権者はその人の頭の上に手を置き,その人の名を呼びます。それから,聖なる神権の権能と救い主のによってその人を末日聖徒イエス・キリスト教会の会員として確認し,次の重要な言葉を言います。「聖霊を受けなさい。」

この儀式が簡素なために,わたしたちはその大切さを見逃してしまうかもしれません。「聖霊を受けなさい」という言葉は受け身でいるよう言い渡すものではありません。むしろ,神権の命令,すなわち単に作用されるものになるのではなく作用するものとなるように促す,権威ある勧告なのです2ニーファイ2:26参照)。 わたしたちの頭に手が置かれてあの言葉が発せられれば,それだけで聖霊が生活の中で働いてくださるわけではありません。この儀式を受けるとき,わたしたち一人一人はほんとうに「聖霊を受け」,それに付随する霊的な賜物を得られるように望み,求め,努力し,ふさわしい生活をするという神聖で途切れることのない責任を受けるのです。「ある人に贈り物が与えられても,彼がそれを受け取らなければ,それは彼にとって何の益があるだろうか。見よ,彼は与えられるものを喜ばず,その贈り物の贈り主をも喜ばない。」教義と聖約88:33

神会の第3の御方をとするよう求めるというこの権威ある勧告を常に実現するには何をすべきでしょうか。わたしの提案はこうです。(1)聖霊を受けたいと心から望む。(2)適切な方法で生活に聖霊を招く。(3)神の戒めを忠実に守る。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝17:30
神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。


「イエス・キリスト:わたしたちの魂の介護者」2021年4月、ウリセス・ソアレス、十二使徒定員会
救い主は,自らの犠牲を通して肉体の死の影響を無条件で取り去りましたが,モーサヤ15:8,20アルマ11:42-4440:23参照)わたしたちが犯した罪を悔い改めるという個人の責任を取り除くことはされませんでした。ヨハネ3:16使徒17:30モーサヤ2:41アルマ42:6-93ニーファイ11:31-40教義と聖約29:40-42133:16参照)むしろ,永遠の御父と和解するよう,愛を込めて招かれたのです。イエス・キリストとその贖いの犠牲を通して,わたしたちは思いと心に大きな変化を経験し,神に対して,また生活全般に対して,新たな態度で臨むことができるのです。アルマ5:13; 『聖句ガイド』「悔い改め」の項参照)自分の罪を心から悔い改め,心と思いを神とその戒めに向けるとき,わたしたちは主の赦しを受け,聖霊の影響力を一層豊かに感じることができます。憐れみ深いことに,わたしたちは救い主が耐えられた深い苦しみを経験しなくてもよいのです。アルマ36:17-20教義と聖約19:15-18参照)

悔い改めの賜物は,御自身の子供たちに対する神の思いやりの表れであり,わたしたちが犯す罪の克服を助ける比類なき神の力の表れでもあります。また,わたしたちの現世における弱さやもろさに対する,愛に満ちた御父の忍耐と寛容をも示しています。わたしたちの愛する預言者ラッセル・M・ネルソン大管長は,この賜物は「幸福と心の平安を得る鍵」であると述べました。(ラッセル・M・ネルソン「行いを改善し,より良くなれます」2019年4月;2ニーファイ9:23,モーサヤ4:6.も参照)

愛する友人の皆さん,罪を真心から悔い改めるときに,2ニーファイ10:24モーサヤ5:1-2参照)キリストの贖いの犠牲がわたしたちの生活に完全な効力を及ぼすことができることを証します。モーサヤ26:293ニーファイ9:20,22モロナイ6:8参照)わたしたちは罪の縄目から解き放たれ,地上の生活で喜びを見いだし,永遠の救いにあずかる資格を得るのです。永遠の救いは,イエス・キリストを信じて主のもとに来るすべての人のために,世の初めから備えられていました。モーサヤ2:41教義と聖約66:1275:593:1参照)

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

使徒行伝17:29
このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。



「心にイエス・キリストへの思いがはっきりと浮かんできた」2023年4月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
この復活祭の時季にわたしが願うことは,わたしたちの心の部屋に,このきわめて重要なイエス・キリストへの思いを,さらに意識的に形作り,強くし,定着させることです。それがしきりに心へ流れ込むようにし,考えや行動の指針となり,継続的に救い主の愛という快い喜びがもたらされますように。

イエス・キリストの力で心を満たすとは,イエスのことだけを考えるという意味ではありません。わたしたちの思いがすべて,主の愛や生涯,教え,贖いの犠牲,輝かしい復活のうちにあるということです。イエスを忘れ去られた心の隅に追いやることは決してありません。主イエスへの思いが常に心にあり,「心〔を〕込めて主を賛めたたえ」「造り主の主を」『賛美歌』37番るからです。祈りをささげ,主に近づいたときの経験を心の中で反芻します。忙しい生活の中で心を駆け巡る無数の思いをそっと和らげる,神聖なイメージや聖文,霊感あふれる賛美歌を,心に喜んで迎え入れるのです。主に対する愛が,この死すべき世における不幸や悲しみの盾となってくれるわけではありませんが,自分の力をはるかに超える強さを得て苦難を乗り越えていくことができるようになります。

「主イエスよ,〔汝なれを思えば〕
わが胸 喜び満つ
み前に出づれば
さらにうれし」「主イエスよ,わが胸」『賛美歌』80番参照)

自分が天の御父の霊の子供だということを覚えていてください。使徒パウロが説明しているように,わたしたちは「神の子孫」使徒17:29なのです。地上に来るずっと前に,今ある個々の特質を持って生きていました。御父は,わたしたちが地上に来て学び,御父のみもとに戻るという,完璧な計画を立てられました。御父が御自分の愛する御子を遣わしてくださったので,わたしたちは,御子の無限の贖罪と復活の力によって墓を超えて生きられるようになりました。そして,進んで御子を信じる信仰を働かせて罪を悔い改める教義と聖約58:42-43参照)ことで,わたしたちは赦され,永遠の命への希望を受けます。教義と聖約14:7参照)