「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -349ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ7:22-23
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。



「キリストにあって一つとなる」2023年4月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会
何らかの基準,あるいは何らかの名の下に一致団結するには,わたしたちはあまりにも違いが多く,時として,調和とは程遠い状態にあります。イエス・キリストにあってのみ,わたしたちは真に一つとなることができるのです。

キリストにあって一つとなることは,各個人から始まります。だれもが自分から始めるのです。わたしたちは肉体と霊を持つ二重の存在であり,自分の中で不和が起こることがあります。パウロが説明したとおりです。

「すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,

わたしの〔肉体における〕肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る。」ローマ7:22-23

イエスもまた,肉体と霊から成る御方でした。試練に遭われたので,理解してくださいます。自分の中の不和を解決できるよう助けてくださいます。へブル4:15参照)ですから,キリストの光と恵みに頼って,わたしたちは肉体を霊と聖なる御霊に従えるために努力します。うまくできなかったときも,キリストは贖罪によって悔い改めの賜物と,やり直す機会を与えてくださっています。

……

1年前,ラッセル・М・ネルソン大管長は,次の言葉でわたしたちに嘆願しました。「わたしたちはだれも,国々やほかの人々の行為を,あるいは自分の家族さえも,コントロールできません。しかし,自分自身をコントロールすることはできます。愛する兄弟姉妹,今日のわたしの呼びかけは,皆さんの心,皆さんの家庭,皆さんの生活の中で激しさを増している対立を終わらせることです。短気であっても,とげとげしい言葉であっても,皆さんを傷つける人に対する恨みであっても,ほかの人を傷つけようとする気持ちはたとえ何であっても埋めてください。救い主は,ほかの頬を向けるように3ニーファイ12:39参照〕,敵を愛するように,そして人々を不当に扱う者のために祈るようにと命じておられます3ニーファイ12:44参照〕。」(ラッセル・M・ネルソン「霊的推進力」、2022年4月)

繰り返します。イエス・キリストに対する個人の忠誠心と,イエス・キリストの愛を通してのみ,わたしたちは一つとなる望みを抱くことができます。それらがあれば,自分の中の一致,家庭内の一致,教会での一致,ついにはシオンにおける一致,そして何よりも,御父と御子,聖霊との一致という望みが,持てるようになるのです。

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ7:21-23
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。


「彼らをもわたしたちのうちにおらせるため」2002年10月、D・トッド・クリストファーソン、七十人定員会
天の御父と御子との完全な一致にわたしたちも招かれているとは,何と光栄なことでしょうか。どうしたら,そのようにできるのでしょうか。

この質問について思い巡らすとき,まず自分自身の中で一致する必要があるということが明らかになります。わたしたちは肉体と霊とから成り,時にその二つの間に不一致や争いがあるのを感じます。わたしたちの霊はキリストの光である良心によって啓発されモロナイ7:16教義と聖約93:2参照),当然の帰結として聖なる御霊のささやきに従い,真理に従いたいと望みます。しかし,肉体は欲求や誘惑を受けやすく,もしもそれを許してしまえば,肉体が霊を打ち負かし,支配してしまうこともあります。パウロは次のように述べています。

「そこで,善をしようと欲しているわたしに,悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

すなわち,わたしは,内なる人としては神の律法を喜んでいるが,わたしの肢体には別の律法があって,わたしの心の法則に対して戦いをいどみ,そして,肢体に存在する罪の法則の中に,わたしをとりこにしているのを見る。」ローマ7:21-23

ニーファイも同じような思いを記しています。

「主が深い慈しみを,大いなる驚くべき業の中でわたしに示してくださっているにもかかわらず,わたしの心は,『おお,わたしは何と惨めな人聞なのだろう』と叫ぶ。まことに,わたしの心はわたしの肉のために苦悩し,わたしの霊はわたしの罪悪のために嘆く。

わたしは,非常にたやすくまとわりつく誘惑と罪に取り囲まれている。」2ニーファイ4:17-18

しかし,救い主を思い出したニーファイは,希望に満ちた言葉でこう結んでいます。「それでもわたしは,これまでに自分がだれに頼ってきたかを知っている。」2ニーファイ4:19それはどのような意味でしょうか。

イエスもまた肉体と霊の存在でしたが,誘惑に屈するようなことはなさいませんでしたモーサヤ15:5参照)。わたしたちは自分自身の内なる一致と平安を求めるとき,主から助けを受けることができます。なぜなら,主はそれを分かってくださるからです。主はその葛藤を御存じであり,またその葛藤にどうしたら勝てるかも理解しておられるのです。パウロはこう記しています。「この大祭司は,わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが,すべてのことについて,わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」ヘブル4:15

最も大切なことは,わたしたちが罪に負け平安を失ったとき,内なる魂の一致を取り戻すために,イエスに目を向け助けを求めるということです。わたしたちが「完全に一つ」となれるように執り成しの祈りをされた後,間もなく,イエスは苦しまれ,罪の贖いのために命をささげられました。主の贖いの力は,罪の影響力を消し去ってくれます。わたしたちが悔い改めるとき,主の贖いの憐れみはわたしたちの罪を取り除き,清めてくださるのです3ニーファイ27:16-20参照)。そして,罪に負け,誘惑に屈した事実がなかったかのようにしてくださるのです。

毎日,毎週,キリストの示された道に従って歩もうと努めるとき,わたしたちの霊は肉体に対して優位を主張し,内なる戦いは静まり,誘惑は力を持たなくなります。霊と肉体の一致はますます高まり,パウロの言葉を借りれば,肉体は「罪にささげる不義の武器」から「神にささげる義の武器」に変えられるのですローマ6:13参照)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ7:19
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。


「恵みの賜物」2015年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
預言者ニーファイは,神の恵みについて理解するうえで役立つ重要なことを教えてくれています。「わたしたちは子孫と同胞に,キリストを信じ,神と和解するように説き勧めるために,熱心に〔働き〕続けようと努めている。それは,わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っているからである。」2ニーファイ25:23

しかし,わたしたちはときどき,「自分の行えることをすべて行った後」という言葉を間違って解釈していることがないでしょうか。「行った後」は,「行ったので」と同じではないことを理解しておかなければなりません。

わたしたちは自分の行えることを全て「行ったので」救われるのではありません。わたしたちの中に,自分の行えることを全て行った人がいるでしょうか。神はわたしたちがあらゆる努力を尽くすまで,わたしたちの人生に手を伸べて救いをもたらす恵みを与えるのをお待ちになるのでしょうか。

求められていることを自分はいつも行えていないと落胆している人が大勢います。「心は熱しているが,肉体が弱い」ことを,彼らは身をもって知っています。マタイ26:41ローマ7:19も参照)彼らはニーファイとともに声を上げて言います。「わたしの霊はわたしの罪悪のために嘆く。」2ニーファイ4:17

ニーファイは,救い主の恵みによって人は罪を克服することが可能となり,そのための能力を授けられるということを知っていたに違いありません。2ニーファイ4:19-35アルマ34:31参照)だからこそ,ニーファイは子孫と同胞に「キリストを信じ,神と和解するように」説き勧めようと非常に熱心に努めたのです。2ニーファイ25:23

結局のところ,それがわたしたちの行えることであり,現世での務めなのです。

あの最初の復活祭の日曜日に至るまでに救い主がわたしたちのためにしてくださったことを思うとき,わたしはいと高き神とその御子イエス・キリストに賛美の声を上げたくなります。

天の門は開かれています。

天の窓は開かれています。

心が打ち砕かれ霊が悔いている人は誰でも,今日にでも,そして永遠に,神の恵みを受けることができます。3ニーファイ9:19-20参照)イエス・キリストは死すべき者の頭では理解の及ばない高みへと昇る道をわたしたちのために開いてくださいました。1コリント2:9参照)

わたしたちが新しい目と新しい心をもって,救い主の贖いの犠牲が持つ永遠の意義を理解することができますように。主の戒めを守り,喜びに満ちて「新しいいのちに生きる」ことによって,ローマ6:4わたしたちが神への愛と,神の無限の恵みの賜物への感謝を示すことができますように。主であり贖い主であられるイエス・キリストの聖なる御名によって,アーメン