「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -348ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ8:5-6
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。


「霊性」(英文)1985年10月、ダリン・H・オークス、十二使徒定員会
信仰を持つ人にとって,霊性とは人生を眺めるレンズであり,それはまた人生を評価する物差しでもあります。パウロはふたつの手紙の中でこのことについて述べています。

「わたしたちは,見えるものにではなく,見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり,見えないものは永遠につづくのである。」2コリント4:18

「肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである。」ローマ8:5-6


霊的であるとは,自分の経験を永遠という大きな観点に立って眺め,評価できるということです。

私たちは皆,この世を眺めるレンズを持っています。レンズは私たちの見るものに特別な色合いをつけます。また,あるものをぼかし,あるものを鮮明に見せることもできれば,肉眼では見えないものを見えるようにすることもできます。霊性のレンズを使えば,「神の思い」を「神の御霊」1コリント2:11によって知ることができます。使徒パウロが教えたように,神の思いは「生れながらの人」にとって「愚かなもの」です。神の思いは「御霊によって判断されるべき」1コリント2:14 ものであるために,生まれながらの人にはそれが見えません。

自分の経験をどう解釈するかは,私たちの霊性の度合にかかっています。世の中には,この世の業績や財産だけに基づいて人生を評価する人がいます。しかし,私たちイエス・キリストの福音の証を持つ者は,人生の目的や救い主の使命に関する知識,および神の子供たちの永遠の行く末についての知識に基づいて自分の経験を評価します。

 

 


今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ8:5-6
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。



「霊に肉体を支配させる」2019年10月、M・ラッセル・バラード、十二使徒定員会
ここで質問です。この闘いを,あなたはどう闘っていますか。

デビッド・O・マッケイ大管長は言いました。「人はこの世にいる間,物質的な慰めと満足を得ることに力と思いと心を向けるか,あるいは霊的な特性を身に付けることを人生〔の目的とする〕かを試されているのです。」(『歴代大管長の教え—デビッド・O・マッケイ』 (2003), 14.)

この肉欲に駆られる性質と霊的な性質との闘いは新しいものではありません。ベニヤミン王は,最後の説教で民にこう教えました。「生まれながらの人は神の敵であり,アダムの堕落以来そうであって,今後もそうである。また人は,聖なる御霊の勧めに従い,主なるキリストの贖罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒とな〔ら〕……ないかぎり,とこしえにいつまでも神の敵となるであろう。」モーサヤ3:19

使徒パウロはこう教えています。「肉に従う者は肉のことを思い,霊に従う者は霊のことを思う……。

肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである。」ローマ8:5-6

この人生で学べる最も大切なことの一つは明らかに,永遠に続く自分の霊的な性質をどう伸ばして邪悪な欲望をどう抑えるかだと思います。それほど難しいことではありません。なにせ,わたしたちの霊は肉体よりもずっと長く存在していて,前世において,すでに悪よりも義を選ぶことに成功しています。この地球が創られる前,わたしたちは天の両親の息子,娘として霊界に住んでいました。天の両親は,当時から今に至るまで,わたしたちを愛しておられます。

そして,確かにわたしたちは,人生を変える決断と選びをその前世でしました。この惑星に生まれた人や生まれてくる人は皆,重要な決断をして天の御父がわたしたちの救いのために作られた計画を受け入れることを選んだのです。ですから,わたしたちは実りある霊的性質と永遠の行く末に関わることにおいて証明された実績を持って地上に来ています。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ8:5
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。


「すべてのことの真理」2017年10月、デビッド・F・エバンズ、七十人定員会
若い男性のころ,わたしは教会についてたくさん疑問がありました。心から知りたいと思っていたものもあれば,そうではなく,ほかの人が疑っているからというものもありました。

そうした疑問について,よく母と話しました。質問の多くは真心からのものであることを,きっと母は感じてくれていたのでしょう。それほど知りたいわけではない議論を吹きかけるような質問には,少しがっかりしていたのではないかと思います。それでも,疑問を抱くわたしを決してけなしたりしませんでした。耳を傾け,質問に答えようとしてくれました。自分に言えることを言い尽くし,それでもなおわたしが疑問に思っていると感じるとき,母はこんなふうに言うのでした。「デビッド,それはいい質問ね。あなたが答えを受けるために探し求め,聖文を読み,祈っているのなら,すべきだと知っていることを行い,すべきでないと知っていることを行わないようにしてみたらどう?」これはわたしが真理を探求する方法となりました。研究と祈りと戒めを守ることを通して,わたしは自分のすべての重要な疑問に答えがあることを知りました。また,一部の疑問には,変わらぬ信仰と忍耐と,さらなる啓示が必要であることも知りました。公式の宣言2

母は,信仰を育み,答えを見いだす責任をわたしに課しました。天の御父が定めておられる方法でわたしが真理を求めることによって,重要な答えはもたらされる,と知っていたのです。母はわたしが真理を見いだす必要があることを知っていました。誠実な思いで尋ね,すでに真実だと知っていることに基づいて進んで行動する必要があることを知っていました。研究し,祈る必要があることと,主からの答えを求めながらさらに忍耐を身につける必要があることを知っていました。進んで忍耐することは真理の探求に欠かせない要素であり,主が真理を明らかになさる方法の大切な一部なのです。ルカ21:15ローマ8:5アルマ32:41-43エテル12:19教義と聖約21:5101:38107:30-31参照)

やがて,わたしは母が真理を探求する天の御父の方法をわたしに教えてくれているのだと分かりました。信仰が強まり,答えを得るようになり,わたしは伝道の召しを受け入れました。