「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -347ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント1:27
それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、……


「帰郷—切なる望み」2017年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
自分はそれほど役に立つとも,だれかの人生を祝福するほどの存在だとも思わないかもしれません。わたしたちは往々にして,自分の限界や欠けているところしか見ていないものです。神に用いられるには,さらに知的で,裕福で,カリスマ性や才能にあふれ,より霊的でなければならない,つまり,何かが「さらに」必要だと思うかもしれません。ところが祝福は,わたしたちの能力ではなく,わたしたちの選びによってもたらされるものなのです。宇宙をつかさどる神は,皆さんの中で,皆さんを通して働かれ,神の目的を果たそうと皆さんがささげる謙遜な努力を大いなるものとしてくださいます。

主の業は常に,次の重要な原則に基づいて進んできました。「小さなことから大いなることが生じる」教義と聖約64:33のです。

使徒パウロはコリントの聖徒たちに対して,彼らの中でこの世の標準から見て賢いと見なされる人は多くないだろうと述べています。しかし,それは問題ではありませんでした。なぜなら「神は……強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を〔お〕選び」1コリント1:27になるからです。

神の業の歴史に登場するのは,自分自身を不十分だと考える人々ばかりです。しかし,彼らは神の恵みと約束に頼りながら謙遜に仕えました。「彼らの腕はわたしの腕となる。わたしは彼らの盾となり……彼らはわたしのために勇敢に戦うであろう。……わたしは……彼らを守ろう。」教義と聖約35:14


 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント1:18
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。


「光と真理の証を受ける」2014年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
科学者は長い間,宇宙の大きさを理解しようと苦労していました。それは観測機器の進歩によってもっと多くの光を集めることができ,さらに完全な真理を理解できるようになるまで続きました。

使徒パウロは霊に関わる知識について同じような原則を教えています。「生れながらの人は,神の御霊の賜物を受けいれない」とパウロはコリントの弟子たちに書き送っています。「それは彼には愚かなものだからである。また,御霊によって判断されるべきであるから,彼はそれを理解することができない。」1コリント2:14

言い換えれば,もし霊的な真理を知りたいと望むなら,正しい機器を使わなければならないということです。霊的な真理を感知できない機器では,そのような真理を理解することはできないからです。

救い主は現代のわたしたちにこう教えておられます。「神から出ているものは光である。光を受け,神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして,その光はますます輝きを増してついには真昼となる。」教義と聖約50:24

心と思いを神に向ければ向けるほど,天の光が与えられます。そして,熱心に進んでその光を求めるたびに,わたしたちはさらなる光を受ける備えができていることを神に示します。ぼやけて,暗く,遠くに見えていたものが,徐々にはっきりとした,輝きのある,慣れ親しんだものになっていきます。

同様に,福音の光から離れると,1日や1週間のうちにではなく長い時間をかけて徐々にですが,わたしたちの光は輝きを失っていきます。やがて振り返ってみると,どうして福音が真実であると信じていたのかさえ理解できなくなってしまうのです。以前の知識が愚かにすら思えるのは,かつてあれほどはっきり見えていたものが,再びぼやけ,かすんで,遠くになってしまったからです。

だからこそパウロは,福音のメッセージは滅びゆくものには愚かだけれども,「救にあずかる〔者たち〕には,神の力である」と強調したのです。1コリント1:18
 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ローマ8:6
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 


「主の御霊がとどまる家庭」2019年4月、ヘンリー・B・アイリング、大管長会
彼らは聖霊を感じ,自分たちが聖なる場所にいると感じたのです。皆が一致して一つとなっていると確かに感じたことでしょう。

その奇跡のような気持ちこそ,わたしたちが家庭に求めているものであり,パウロが述べた「霊の思い」から来るものです。ローマ8:6

今日のわたしの目的は,家庭においてその気持ちをもっと頻繁に,より長い時間感じられるように御霊を招く方法について,わたしが知っていることをお話しすることです。皆さんもそれが容易ではないことは経験から御存じでしょう。争いや高慢,罪を避ける必要があります。家族一人一人が心にキリストの純粋な愛を受ける必要があります。

……

例えば,高慢を悔い改めるよう子供に呼びかけても,成果は限られています。子供たちに,自分の物をもっと寛大に分かち合うよう説得できるかもしれません。家族のだれかよりも優れていると思うのをやめるように言うこともできます。しかしそのとき「イエス・キリストへの信仰が弱まり始める」という症状が現れてくるのです。

ここに,家族と自分自身を望ましい霊的な状態に引き上げるよう,家族を導くための鍵があります。イエス・キリストが愛深い救い主であられるという信仰を増すことができるように家族を助けるとき,彼らは悔い改めたいと感じます。そうすると,謙遜が高慢に取って代わります。主が与えてくださったものに気づき始めると,もっと寛大に分かち合いたいと思うようになります。注目や脚光を浴びるために競争する気持ちがなくなっていきます。愛によって,憎しみが消え去ります。そして最終的に,ベニヤミン王によって改心した民に起こったように,善を行おうとする望みが,罪の誘惑に対するとりでになるのです。ベニヤミン王の民は,悪を行う性癖をもう二度と持つことはなかったと証しています。モーサヤ5:2

ですから,イエス・キリストへの信仰を築くことは,あなたの家族と家庭における霊性の低下を逆転させる第一歩なのです。霊性の低下がもたらす症状について説教するよりも,信仰を育む方が悔い改めにつながるのです。

 

 

子供たちの学びと成長を育む