ローマ7:19
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
「恵みの賜物」2015年4月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
預言者ニーファイは,神の恵みについて理解するうえで役立つ重要なことを教えてくれています。「わたしたちは子孫と同胞に,キリストを信じ,神と和解するように説き勧めるために,熱心に〔働き〕続けようと努めている。それは,わたしたちが自分の行えることをすべて行った後に,神の恵みによって救われることを知っているからである。」(2ニーファイ25:23)
しかし,わたしたちはときどき,「自分の行えることをすべて行った後」という言葉を間違って解釈していることがないでしょうか。「行った後」は,「行ったので」と同じではないことを理解しておかなければなりません。
わたしたちは自分の行えることを全て「行ったので」救われるのではありません。わたしたちの中に,自分の行えることを全て行った人がいるでしょうか。神はわたしたちがあらゆる努力を尽くすまで,わたしたちの人生に手を伸べて救いをもたらす恵みを与えるのをお待ちになるのでしょうか。
求められていることを自分はいつも行えていないと落胆している人が大勢います。「心は熱しているが,肉体が弱い」ことを,彼らは身をもって知っています。(マタイ26:41;ローマ7:19も参照)彼らはニーファイとともに声を上げて言います。「わたしの霊はわたしの罪悪のために嘆く。」(2ニーファイ4:17)
ニーファイは,救い主の恵みによって人は罪を克服することが可能となり,そのための能力を授けられるということを知っていたに違いありません。(2ニーファイ4:19-35;アルマ34:31参照)だからこそ,ニーファイは子孫と同胞に「キリストを信じ,神と和解するように」説き勧めようと非常に熱心に努めたのです。(2ニーファイ25:23)
結局のところ,それがわたしたちの行えることであり,現世での務めなのです。
あの最初の復活祭の日曜日に至るまでに救い主がわたしたちのためにしてくださったことを思うとき,わたしはいと高き神とその御子イエス・キリストに賛美の声を上げたくなります。
天の門は開かれています。
天の窓は開かれています。
心が打ち砕かれ霊が悔いている人は誰でも,今日にでも,そして永遠に,神の恵みを受けることができます。(3ニーファイ9:19-20参照)イエス・キリストは死すべき者の頭では理解の及ばない高みへと昇る道をわたしたちのために開いてくださいました。(1コリント2:9参照)
わたしたちが新しい目と新しい心をもって,救い主の贖いの犠牲が持つ永遠の意義を理解することができますように。主の戒めを守り,喜びに満ちて「新しいいのちに生きる」ことによって,(ローマ6:4)わたしたちが神への愛と,神の無限の恵みの賜物への感謝を示すことができますように。主であり贖い主であられるイエス・キリストの聖なる御名によって,アーメン
