「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -345ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント8:13
だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。


「傷ついた兄弟」(英文)1982年4月、二一ル・A・マックスウェル、十二使徒定員会
同様に、ある人々は,私たちが王国において互いに接し,経験を通して学んでいくということを忘れています。主は,過ちを犯す私たちではありますが,互いに訓練し合うように求めておられるのです。熟練した外科医ではなく,インターンが治療するのですから,それがどのようなことになるか,よくおわかりだと思います。はからずも,相手を傷つけてしまうことがあるのです。

また,王国にはいろいろな指導法があることも,よく忘れられています。パウロは,弱い兄弟たちをつまずかせないために肉を食べないように配慮しました。それに対してバプテスマのヨハネは,イナゴとハチミツの食事をしましたが,それは一般の人々には,特にエルサレムの上流階級の人々には受け入れられないものだったでしょう。(1コリント8:13参照)

私たちはいつも「思い違い」をすることのないように気をつけなければなりません。(モルモン書ヤコブ4:14参照) どこに焦点を合わせるかは,私たち自身の責任です。強調すべきことは,ペテロがしばらくの間水の上を歩いたことでしょうか,それともすぐに溺れかけたことでしょうか。たとえ短時間であっても,ペテロのほかに水の上を歩いた人がいたでしょうか。

不完全な人々が,完全な主によって主のみ業を助ける責任に召されています。ジョセフ・スミスと行動を共にしていた人々は,彼の不完全なところを目にしましたが, 主はすでにそのことを承知していると言われました。そして,予言者ジョセフを通して啓示した事柄が真実であると証されたのです。(教義と聖約67:5,9参照)

したがって,私たちが互いの弱点に気づいたとしても,それは驚くに足らないことです。しかし,弱点を見つけて喜んでいてはいけません。欠点を喜ぶのではなく,私たちの小さな歩みに感謝しようではありませんか。間違いを犯した時は,それによって自分の成長を妨げるのでなく,そこから何かを学ぶようにしようではありませんか。

 

 



今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント2:11
いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。



「信仰は偶然ではなく,選びによって与えられる」2015年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
皆さんの信仰は偶然ではなく,選びによって成長するのです。

どのように生活するかによって,信仰は増し加わったり衰えたりします。祈り,従順,正直,義にかなった思いと行い,無私の心は,信仰を増し加えます。これらがなければ,信仰は衰えます。なぜ救い主はペテロに次のように言われたのでしょうか。「わたしはあなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈った。」ルカ22:32 なぜなら,わたしたちの信仰を打ち砕くことを喜びとする敵がいるからです。あらゆる努力をして,信仰を守ってください。

正直な問いかけをすることは,信仰を培ううえで重要なことであり,知性と感情の両方を使います。主は言われました。「わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」教義と聖約8:2 全ての答えがすぐに与えられるわけではありませんが,ほとんどの疑問は心からの研究と神に答えを願い求めることによって解決します。心を働かせずに頭だけを使っても霊的な答えはもたらされません。「神の思いも,神の御霊〔を通してでなければ〕,知るものはない。」1コリント2:11 そしてイエスはわたしたちを助けるために「別〔の〕助け主」を送ると約束し,その御方を「真理の御霊」と呼ばれました。ヨハネ14:16-17

信仰は決して,全ての疑問への答えを求めたりはしません。しかし信仰は時折,「全てのことを知っているわけではないが,主の弟子としての道を歩み続けるのには十分な知識が確かにある」ことを認識しつつ前進するための確信と勇気を求めます。(アダム・コッター「疑念や疑問が生じたら」『リアホナ』 2015年3月号, 39-41)

 

……

 

愛する友人の皆さん,皆さんの信仰は誕生とともに始まったのでもなければ,死とともに終わるわけでもありません。信仰は選びです。自分の信仰を強め,救い主から「あなたの信仰は見あげたものである」という承認の言葉を受けるにふさわしく生きてください。そうするときに,イエス・キリストの恵みを通して,皆さんの信仰により,いつの日か,愛する人々とともに,神の御前に清く汚れのない状態で立つことができることを約束します。イエス・キリストの御名により,アーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント2:9
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。



「うたえぬ歌をも」2011年10月、クエンティン・L・クック、十二使徒定員会
愛する人を失った人にとって特に難しい問題は,この世の人生で失われた機会について,あれこれ考え続けないようにすることです。まだ若いうちに亡くなった人には優れた能力や才能,影響力を持った人が多いものです。わたしたちは理解力が限られているため,もはや成し遂げられることのない事柄や歌われることのない歌を悲しみます。人々は,「彼は音楽を内にとどめたまま死んでしまった」などと言ったりします。この場合の音楽とは,どのような種類であれ,発揮されなかった潜在的な力のたとえです。かなりの準備を重ねてきたのに,この世では実現させる機会のない人もいます。(“The Song That I Came to Sing,” The Complete Poems of Rabrindranath Tagore’s Gitanjali,S・K・ポール編(2006年),64:「今日まで歌うこともなく,楽器の弦を張ってはほどく日々が流れた。」参照)トマス・グレイが書いたよく引用される有名な詩「エレジー,墓畔の哀歌」の一節には,そのような失われた機会への思いが込められています。

咲く花は多けれど 人に見られることもなし
麗しき香りとて むなしく空に漂うばかり (トーマス・グレイ,“Elegy Written in a Country Church-Yard,” The Oxford Book of English Verse,クリストファー・リック編(1999年),279)

失われた機会は家族,仕事,才能,経験などに関連したものであることもあります。コーベット姉妹の場合には,これらが皆,若くして断ち切られてしまったのです。歌うことのなかった歌があり,この世の人生で発揮されなかった潜在能力がありました。しかし,単なるこの世の不完全なレンズではなく,福音の広く,澄んだレンズを通して見れば,愛にあふれた御父がその計画の中で約束された永遠の大いなる報いが待っているのです。使徒パウロが教えたように,「目がまだ見ず,耳がまだ聞かず,人の心に思い浮うかびもしなかったことを,神は,ご自分を愛する者たちのために備えられた」のです。1コリント2:9愛されている賛美歌の次の一節は,慰め,元気づけ,そして澄んだレンズを与えてくれます。「うたえぬ歌をも主は聴きたもう。」「心に光あり」『賛美歌』139番