「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -340ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント15:42-43
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、…



「破れた器のように」2013年10月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
兄弟姉妹の皆さん,精神的,情緒的,身体的など,どのような苦しみを抱えていても,貴い命を絶つことを選んではなりません! 神を信頼してください。その愛にすがって堪え忍んでください。いつか日は輝かしく明け,死すべき世の影が消えることを知っていてください。詩篇の作者が言うように,詩篇31:12) わたしたちが「破れた器のように」なったとしても,その器は天の陶工の御手にあることを忘れてはなりません。折れた骨や傷ついた心臓が癒されるように,傷ついた心も癒されます。神がその修復に携わっておられる間,残りのわたしたちは慈悲深く,裁かず,いたわりをもつことによって助けることができます。

わたしは神聖な復活について証します。復活は主イエス・キリストの贖いの中で言い尽くせないほど重要な賜物です! 使徒パウロとともに,朽ちるものでまかれたものがいつか朽ちないものによみがえり,弱いものでまかれたものが強いものによみがえることを証します。(1コリント15:42-43参照) 死すべき世で障がいを抱えていた愛する人々が,栄光に満ちた,すばらしい,息をのむほど完全な体と精神でわたしたちの前に立つ日が来ると証します。何とすばらしい瞬間でしょう! そのとき,そのような奇跡を目にした自分のための喜びと,「ついに自由になれた」(“Free at Last”,J・W・ワーク,American Negro Songs: 230 Folk Songs and Spirituals, Religious and Secular (1998年),197より抜粋)彼らのための喜びのどちらが大きいのか,わたしには分かりません。キリストの完全な賜物が万人に明らかになるそのときまで,信仰と希望をもち,「同情し合」って1ペテロ3:8) 生きることができますように。イエス・キリストの御名により,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント15:19
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。


「傷を負った人」2018年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
心を尽くして祈ってください。イエス・キリストを信じる信仰と,主の実在や主の恵みに対する信仰を強めてください。主の言葉から力を得るのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」2コリント12:9



悔い改めが霊的な特効薬であることを忘れないでください。(See Neil L. Andersen, “The Joy of Becoming Clean,” Ensign, Apr. 1995, 50–53)戒めを守り,慰め主にふさわしくあり,救い主の約束を心に留めるのです。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」ヨハネ14:18

神殿で感じる平安は,傷ついた心の痛みを和らげてくれる香油です。傷ついた心と,自分の先祖の名前を携えて,できるだけ頻繁に主の宮に参入してください。神殿では,現世での短い時間を永遠という広大なスクリーンに映し出してくれます。1コリント15:19

過去を振り返り,前世で自分のふさわしさを証明したことを覚えていてください。皆さんは神の勇敢な子供であり,主の助けを受け,この堕落した世での戦いに勝利することができます。かつてのように,もう一度戦いに打ち勝つことができるのです。

今度は未来を見てください。問題や悲しみは確かに実在しますが,永遠に続くのではありません。1ニーファイ1:11ニーファイ18:16なぜなら,御子が「〔御自分の〕翼に癒しを携えて」3ニーファイ25:2よみがえられたからです。

……

兄弟姉妹の皆さん,主イエス・キリストを信じる信仰を増し加えるならば,より大きな力と希望がもたらされることを約束します。義にかなった皆さんのために,わたしたちの心の癒し主は,主の時に,主の方法で,皆さんの傷をすべて癒してくださるでしょう。(ラッセル・M・ネルソン「イエス・キリスト—偉大な癒し主」2005年10月)いかなる不義も,迫害も,試練も,悲しみも,心痛も,苦難も,傷も,それがどれほど深く,大きく,つらいものであっても,みもとに戻るわたしたちを,両腕を広げ傷ついた御手をもって迎えてくださる御方の慰めや平安,永続する希望から,わたしたちを引き離すことはないのです。その日には,使徒ヨハネが証したように,「大きな患難をとおってきた」黙示7:14義人は「白い衣を身にまとって……神の御座の前に」立つでしょう。小羊は「〔わたしたち〕の牧者となって……〔わたしたち〕の目から涙をことごとくぬぐいとって下さる」ことでしょう。黙示7:13,15,17参照)その日は必ずやって来ます。イエス・キリストの御名により証します,アーメン

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

1コリント15:14
もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 


「日曜日は必ずやって来る」2006年10月、ジョセフ・B・ワースリン、十二使徒定員会
わたしたちは復活が何かを知っています。それは霊と肉体が再び結合して完全な形になることです。アルマ11:43参照)

ジョセフ・F・スミス大管長は言いました。「わたしたちは,現世で別れた人々と再び会い,今ある姿を見ることができ〔ます〕。……わたしたちは肉において現世で交わった〔その同じ〕人々に会うことでしょう。」(『歴代大管長の教え――ジョセフ・F・スミス』91)

スペンサー・W・キンボール大管長はさらに詳しく述べています。「肉体的,精神的,霊的に最も良い状態にある自分を想像してください。それこそが,復活したときの姿です」(スペンサー・W・キンボール,The Teachings of Spencer W. Kimball,エドワード・L・キンボール編(1982年),45)

復活すると,「この死すべき体は不死不滅の体によみがえる。……〔わたしたちは〕もう死ぬことはあり得ない。」アルマ11:45

想像できるでしょうか。全盛期の姿によみがえるのです。病も痛みもなく,現世でしばしば人にまとわりつく病気に悩まされることもないのです。

復活は,クリスチャンの信条の核を成すものです。復活なしには,わたしたちの信仰は無意味です。使徒パウロは言いました。「もしキリストがよみがえらなかったとしたら,わたしたちの宣教はむなしく,あなたがたの信仰もまたむなしい。」1コリント15:14

……

キリストが十字架にかかられた金曜日は,どんなに暗かったことでしょう。

その恐ろしい金曜日,地は揺れ,闇に包まれました。恐ろしい嵐が地を襲いました。

……

世界の歴史が始まって以来,この金曜日ほど暗い日はなかったでしょう。

しかし,その悲しみは続きませんでした。失意は消え去りました。なぜなら日曜日に,復活された主が死の縄目を解き放ったからです。主は墓からよみがえり,栄光のうちに勝利を収め,全人類の救い主として御み姿すがたを現されたのです。

一瞬にして,とめどなくあふれる涙でいっぱいだった目は乾きました。苦悩と悲嘆の祈りをささやいていた唇は,驚くべきことを賛美する言葉を語り始めました。なぜなら,生ける神の御子イエス・キリストが,よみがえりの初穂として人々の前に立ち,死が新たな驚くべき人生の始まりにすぎないことを証明したからです。

だれもが自分の金曜日を経験するでしょう。世界が粉々になり,その砕け散ったかけらの中に自分が独りいるように感じる金曜日を。すべてが砕け散ってもう元には戻らないように思える日々を,だれもが経験するでしょう。だれもが自分の金曜日を経験します。

しかし,死に打ち勝った主の御名(みな)により,証します――日曜日は必ずやって来ます。悲しみの暗闇の中に,日曜日は必ずやって来るのです。

どんなに失意の底にあり,悲しみが深くとも。日曜日は必ずやって来ます。この世かあるいは次の世に。日曜日は必ずやって来ます。