「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -335ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2コリント12:9
ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。


「傷を負った人」2018年10月、ニール・L・アンダーセン、十二使徒定員会
心を尽くして祈ってください。イエス・キリストを信じる信仰と,主の実在や主の恵みに対する信仰を強めてください。主の言葉から力を得るのです。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」2コリント12:9

悔い改めが霊的な特効薬であることを忘れないでください。(See Neil L. Andersen, “The Joy of Becoming Clean,” Ensign, Apr. 1995, 50–53)戒めを守り,慰め主にふさわしくあり,救い主の約束を心に留めるのです。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」ヨハネ14:18

神殿で感じる平安は,傷ついた心の痛みを和らげてくれる香油です。傷ついた心と,自分の先祖の名前を携えて,できるだけ頻繁に主の宮に参入してください。神殿では,現世での短い時間を永遠という広大なスクリーンに映し出してくれます。1コリント15:19

過去を振り返り,前世で自分のふさわしさを証明したことを覚えていてください。皆さんは神の勇敢な子供であり,主の助けを受け,この堕落した世での戦いに勝利することができます。かつてのように,もう一度戦いに打ち勝つことができるのです。

今度は未来を見てください。問題や悲しみは確かに実在しますが,永遠に続くのではありません。1ニーファイ18:16なぜなら,御子が「〔御自分の〕翼に癒しを携えて」3ニーファイ25:2よみがえられたからです。

ノービー夫妻はわたしに言いました。「落ち込むことは時折あっても,決してそのままではいません。」使徒パウロはこう述べています。「わたしたちは……患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」2コリント4:8-9疲れ果てることがあっても,絶対に諦めないでください。

ひどい傷を負っていても,皆さんは本能的に人々へに手を差し伸べ,救い主の約束に信頼を寄せることでしょう。「わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう。」マタイ16:25自分も傷を負っていながら,ほかの人の傷を手当てする人は,地上における神の天使です。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2コリント12:7-10
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。



「4階の最後のドア」2016年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
物理的な世に住みながら霊的な事柄に対する信仰をはぐくむのは簡単ではありません。でも,努力する価値はあります。生活の中で発揮される信仰の力は深遠だからです。聖文は,信仰によって多くの世界が創られ,水が分けられ,死者がよみがえり,川の流れや山の位置が変えられたと教えています。へブル11:3,5,29,35エテル12:30;モーセ7:13参照)

中にはこのように尋ねる人もいるでしょう。「これほど強い信仰があるのに,なぜ心からの祈りに答えを受けられないのですか。海を分けたり,山を動かしたりする必要はありません。ただ,病気が治り,両親が互いに赦し合い,片手には花束を,もう片方の手には婚約指輪を持った永遠の伴侶が玄関先に現れてくれさえすればいいのです。わたしの信仰ではそれがなぜできないのですか。」

信仰は確かに力強く,奇跡を起こすこともよくあります。しかし,どれほどの信仰を持っていても,できないことが二つあります。まず,人の選択の自由を侵すことはできません。

ある女性は,道を外れた娘がキリストの群れに戻るよう何年も祈り続けましたが,祈りがこたえられなかったと思い,落胆しました。放蕩息子や娘がその生き方を悔い改めたという話を周りから聞くのは,特につらいことでした。

彼女の問題は,祈りや信仰が足りなかったということではありません。天の御父にとってもつらいことですが,神はだれにも義の道を選ぶように強制なさらないことを,彼女はただ理解する必要があったのです。前世においても,神はその子供たちに御自分に従うよう強制されませんでした。そうであるなら,今この現世を旅するわたしたちを強制されることがないのは当然でしょう。

神は招き,説得してくださいます。たゆまず,愛と霊感と励ましをもって手を差し伸べてくださいます。しかし,決して無理強いされることはありません。永遠の進歩をもたらす主の偉大な計画を台なしにしてしまうからです。

信仰でできない二つ目のことは,神にわたしたちの思いを無理強いすることです。自分の望みをかなえてくださるよう神に強要することはできません。たとえどんなに正しいと思えても,どれほど心から祈ったとしてもです。パウロが「肉のとげ」と呼んだ,個人的な試練から逃れさせてくださるように何度も主に願い求めた経験について考えてみてください。しかし,それは神の御心ではありませんでした。やがてパウロは,試練が祝福であったことに気づき,自分が望んだようには神がおこたえにならなかったことを感謝しました。2コリント12:7-10参照)

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

2コリント12:7
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。


「与えられたもので満足する」2000年4月、ニール・A・マックスウェル、十二使徒定員会
満足とは自己憐憫なしに受け入れることです。しかし従順に堪え忍ぶならば、このような欠乏は、大きく高められた魂で埋めることができる穴のようなものにすぎないと言えるようになるでしょう。

中には、この世での安定した生活を突然打ち破られるような経験をする人もいます。ある人々は「一時的な」試練に襲われるだけですが、与えられたものを「受け入れる」しかない人もいます。パウロは自分の「肉体に一つのとげ」があることを「受け入れて」いました(2コリント12:7)

そうした現世での配分は、来たるべき世で一変すると言えば十分でしょう。来世でのわたしたちの状態を決定する、悔い改めていない罪だけが例外です。

したがって、与えられた制限や機会の中で満足感を育てることはわたしたちに与えられた課題です。これがうまくいかないと、使ってもらえない、期待されていない、感謝されていないといった気持ちになりますが、皮肉にも周りには用いられていない奉仕の機会が身近にあるのです。ですから、力強い天使の声のような、神が授けてくださった以上のものを求めるべきではありません。授けられた中でできることがたくさんあるからです(アルマ29:3-4参照)。さらに、与えられた環境がどうあれ、神の戒めを守ることはできるでしょう。