2コリント12:7-10
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
「4階の最後のドア」2016年10月、ディーター・F・ウークトドルフ、大管長会
物理的な世に住みながら霊的な事柄に対する信仰をはぐくむのは簡単ではありません。でも,努力する価値はあります。生活の中で発揮される信仰の力は深遠だからです。聖文は,信仰によって多くの世界が創られ,水が分けられ,死者がよみがえり,川の流れや山の位置が変えられたと教えています。(へブル11:3,5,29,35;エテル12:30;モーセ7:13参照)
中にはこのように尋ねる人もいるでしょう。「これほど強い信仰があるのに,なぜ心からの祈りに答えを受けられないのですか。海を分けたり,山を動かしたりする必要はありません。ただ,病気が治り,両親が互いに赦し合い,片手には花束を,もう片方の手には婚約指輪を持った永遠の伴侶が玄関先に現れてくれさえすればいいのです。わたしの信仰ではそれがなぜできないのですか。」
信仰は確かに力強く,奇跡を起こすこともよくあります。しかし,どれほどの信仰を持っていても,できないことが二つあります。まず,人の選択の自由を侵すことはできません。
ある女性は,道を外れた娘がキリストの群れに戻るよう何年も祈り続けましたが,祈りがこたえられなかったと思い,落胆しました。放蕩息子や娘がその生き方を悔い改めたという話を周りから聞くのは,特につらいことでした。
彼女の問題は,祈りや信仰が足りなかったということではありません。天の御父にとってもつらいことですが,神はだれにも義の道を選ぶように強制なさらないことを,彼女はただ理解する必要があったのです。前世においても,神はその子供たちに御自分に従うよう強制されませんでした。そうであるなら,今この現世を旅するわたしたちを強制されることがないのは当然でしょう。
神は招き,説得してくださいます。たゆまず,愛と霊感と励ましをもって手を差し伸べてくださいます。しかし,決して無理強いされることはありません。永遠の進歩をもたらす主の偉大な計画を台なしにしてしまうからです。
信仰でできない二つ目のことは,神にわたしたちの思いを無理強いすることです。自分の望みをかなえてくださるよう神に強要することはできません。たとえどんなに正しいと思えても,どれほど心から祈ったとしてもです。パウロが「肉のとげ」と呼んだ,個人的な試練から逃れさせてくださるように何度も主に願い求めた経験について考えてみてください。しかし,それは神の御心ではありませんでした。やがてパウロは,試練が祝福であったことに気づき,自分が望んだようには神がおこたえにならなかったことを感謝しました。(2コリント12:7-10参照)
