「わたしに従ってきなさい」の聖句学習 -310ページ目

「わたしに従ってきなさい」の聖句学習

末日聖徒イエス・キリスト教会が提供する「わたしに従ってきなさい」の聖句を学ぶために、ここではその聖句を引用している現代の預言者のお話を中心に、主に総大会からご紹介します。

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:22
そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。


「奉仕する意志とふさわしさ」2012年4月、トーマス・S・モンソン大管長
兄弟の皆さん,世の人々はわたしたちの助けを必要としています。わたしたちはすべきことをすべて行っているでしょうか。ジョン・テーラー大管長の次の言葉を覚えているでしょうか。「召しを尊んで大いなるものとしないならば,神は,皆さんが義務を果たしていたら救えたはずの人々への責任を皆さんに帰せられます。」(『歴代大管長の教え――ジョン・テーラー』164)足を踏み外さないよう助けてあげられる人がいます。手を握り,励まし,鼓舞し,救うべき人がいます。永遠の祝福が皆さんを待っています。神権の奉仕という舞台の観客ではなく出演者となるのは皆さんの特権です。ヤコブの手紙に書かれた,心を揺り動かす勧告に耳を傾けましょう。「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない。」ヤコブの手紙1:22

わたしたちの義務を学び,深く考えましょう。奉仕する意志とふさわしさを身に付けましょう。義務を果たすときに,主の模範に従いましょう。皆さんもわたしもイエスの歩まれた道を歩むとき,主が,ベツレヘムで生まれた子,大工の息子,かつて生を受けた最も偉大な教師以上の御方であられることが分かるでしょう。主は神の御子であり,わたしたちの救い主,贖い主であられることが分かるようになるでしょう。主は義務の召しを受けたとき,このようにお答えになりました。「父よ,あなたの御心が行われ,栄光はとこしえにあなたのものでありますように。」モーセ4:2わたしたち一人一人がそのように行えますように,主イエス・キリストの聖なる御名により祈ります,アーメン

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:17
あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。


「恐れることはない。ただ信じなさい。」2022年4月、ジェフリー・R・ホランド、十二使徒定員会
わたしは今日,教会の若者たち,そして彼らに助言する親や大人の皆さんに懇願します。幸福を探したいなら,まずはあらゆる良い賜物を下さる御方がすでに下さっている豊かな恵みを受け入れてください。ヤコブの手紙1:17参照。モロナイ10:5-20も参照)世の多くの人々が心の底から問いかけている今こそ,わたしたちはイエス・キリストの「よい知らせ」(Bible Dictionary, “Gospels.”)をもって答えるべきです。世の救い主の使命とメッセージを高く掲げる末日聖徒イエス・キリスト教会は,この時代にこそ必要とされる,善を見つけ行うための永遠にわたり最も大切な価値のある方法を提供しているのです。

ラッセル・M・ネルソン大管長は,現代の若者には「これまでのどの世代よりも世界に〔良い〕影響を与える能力」(ラッセル・M・ネルソン「セミナリーやインスティテュートへ参加するようにという個人的な招き」2019年2月4日)があると言いました。わたしたちは,ほかのだれにも増して,「贖いをもたらす愛の歌を歌〔って〕」アルマ 5:26いるはずですが,それには「弟子」としての鍛錬が必要です。つまりわたしたちが永遠の救いの歌を歌おうとするときに音程を狂わせようとする否定的な態度や有害な習慣に対抗して,防御を固める必要があります。

「陽の当たる道」(この言葉は1930年代に流行したジャズソング“On the Sunny Side of the Street”から取られました。作詞はドロシー・フィールズ)を歩いていても,何につけ暗く陰気な面にばかり目を向けようとする人に出会うことがあるかもしれません。そのような人の口癖はこうです。「暗闇の後には,真っ暗闇が来る。」〔訳注:「暗闇の後には夜明けが来る」ということわざをもじっている。〕何と悪意のある,惨めな考え方でしょう。もちろん,今いる場所から逃げ出したくなるときもあるでしょうが,自分自身から逃げてはなりません。わたしたちは,神から愛され,いつでも赦しを受け,決して,決して見捨てられはしない,生ける神の子供です。あなたは神にとって最も貴い存在です。神の子供なのです。神はあなたに,預言者,約束,霊的な賜物,啓示,奇跡,メッセージ,そして幕の両側にいる天使たちを与えてくださいました。(ジェフリー・R・ホランド「天使の務め」2008年10月)

……

もちろん,今日においては,イエス・キリストの弟子の誰もが難しい問題に直面します。この教会の指導者たちは,自らの命を削って,問題の解決方法を主に求めています。だれもが納得する形で解決できない問題があるとすれば,それは恐らく,イエスに従う人々が負わなければならない十字架の一つなのでしょう。12暗い日々や難題があるからこそ,神は,昼は雲,夜は火の柱をもって預言者を導き,鉄の棒を与え,まっすぐな道に続く狭い門を開き,とりわけ,終わりまで堪え忍ぶ力を与えると,約束してくださったのです。(例えば,出エジプト13:21-22アモス3:71ニーファイ8:242ニーファイ9:41参照)

ですから,どうぞこのごちそうを終わりまで味わってください。ごちそうに入っているブロッコリーは苦手かもしれないと思っても,です。主の光を浴び,あなたの明かりでこの大義に光を添えてください。マタイ5:15-163ニーファイ12:15-16参照)初等協会で教えている通り,「光となるように」「光となるように」『子供の歌集』38エスさまは本気で皆さんに求めておられます。

 

 

 

今週の「わたしに従ってきなさい」

 

 

ヤコブ1:12
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。


「いばらの冠, 栄えの冠」(英文)1991年4月、ジェームズ・E・ファウスト、十二使徒定員会
ブラジルのサンパウロから少し離れた所に、ホザランディアと呼ばれる広大なバラ園があります。そのバラ園を見渡す小高い丘に登ると、すばらしい香りと美しい眺めを満喫できます。バラにはとげがありますが、そのすばらしい光景と香りを損なわせるものではありません。私はすべての人々に、人生で直面するとげやいばらに対して正しい理解を持つよう、チャレンジしたいと思います。私たちはそれらの問題に取り組むべきです。しかしとげではなく、人生の花に心を向けてください。バラとサボテンの花の香りと美しさを楽しむべきです。花の甘い香りを楽しむには、自制心を働かせ、正しい生活をする必要があります。また、そのような生活をするには、聖典の学習、適切な優先順位、正しい態度が求められます。私たちは神殿参入を通して、人生のすばらしさにさらに強く心を向けることができます。とげに直面することもありますが、花の芳しさと美しさに比較すれば大したものではありません。救い主は「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろうばらう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。」マタイ7:16

イギリスの作家トーマス・カーライルはこう書いています。「貴い冠、地上の永遠の冠、それは、いばらの冠。」(「過去と現在」3:173)


......

 

この現世では大きな誘惑に直面することもあります。しかし、忠実で、献身的に奉仕をする人には、「名誉と栄光と、不死不滅と、永遠の生命との冠」が約束されています。教義と聖約75:5したがって、この世の誉れにも試しにも負けることはありません。パウロは朽ちることのない冠1コリント9:25について話し、ヤコブは忠実な人に授けられる「いのちの冠」について話しました。ヤコブ1:12黙示者ヨハネは、「あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい」と勧告しました。黙示3:11

権力、金銭欲、物質欲、人の誉れなどは、いばらの冠ではないでしょうか。それらの根底にあるのは、与えることではなく、人から得ること、受けることなのです。利己心は、私たちが貴い冠と考えている物を、耐え難いいばらの冠に変えてしまうこともあります。私が社会に出て最初に働いたときのことです。長く働いているある社員が、法律のことで別の古参社員に助けを求めました。頼まれた人は非常に優秀でしたが、利己的な人でした。彼は「それで、私にはどういう利益があるの」と答えました。「自分にはどういう利益があるの」というその考え方は誤ったものであり、いばらの冠の中でも最もとがった部分のひとつということができます。

イエス・キリストは私たち一人一人に、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と呼び掛けておられます。マタイ16:24今こそ自分を捨て、救い主が勧告されたように、「自分のことしかしない」という利己的で狭い世界を抜け出て、自分自身を治めることを始める時ではないでしょうか。問題は私たちに何ができるかではなく、神が私たちを通して何がおできになるかです。パウロはこう言いました。「もし人が……自分をきよめるなら……尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。」2テモテ2:21